『SEIKO』の腕時計

Just One Thing #10

『SEIKO』の腕時計

矢野仁穂(会社員、焼菓子店『カサネ』店主)

Photo&Text: ivy

People / 2022.07.14

 街は、スタイルが行き交う場所だ。仕事、住む場所、友だち、パートナー、その人が大切にしていることが集約された「佇まい」それこそがその人のスタイルだと思う。
 絶えず変わりゆく人生の中で、当然、スタイルだって変わる。そんな中でも、一番愛用しているものにこそ、その人のスタイルが出るんじゃないかって。今、気になるあの人に、聞いてみた。
「一番長く、愛用しているものを見せてくれないか」


#10

 当たり前のことだけど、好きなことは変わる。人は成長していくものだし、周りだって変わっていく。この連載のテーマであると共に、人が生きていく上で共通のテーマでもあるかもしれない。だからこそ「好きなことを仕事にする」、これが文字数に見合わないくらい複雑で奥深い、答えのない概念であることを私たちは知っている。

 実際に好きなことを仕事にできている人だって、今好きなことが仕事をしているうちに変わるかもしれないし、今熱中していることは最初から好きだったとは限らない。それでも、それを体現している人に魅力を感じる。それはきっと、誰もが一度は抱える、身近で且つ難解な自分自身への問いかけを繰り返し、積み重ねた考えがあるから。

 焼菓子店『カサネ』の店主、矢野仁穂(ヤノキミホ。以下、キミホ)は、まさにそういう人だ。ポップアップやオンラインで焼菓子の製作・販売を行っている一方で、平日は会社員。飲食関係のブランディングを手掛ける会社でプロジェクトマネージャーとして働いている。多忙な日々の中、久々に予定が合ったので、青山にある『ブルーボトルコーヒー』でコーヒーブレークを一緒にとることにした。近くにはハイブランドの路面店や広告関係のオフィスが集まる街。平日となると、少し気張ったおしゃれをした人が多い街だけれど、カーキのワントーンコーデで現れた彼女は、どこ吹く風で自然体。仕事の合間であることを忘れてしまうくらい、飄々としていて、肩の力が抜けていた。



 そんな彼女が今回持参してくれたのは、『SEIKO』の腕時計。シルバーのメタルバンドで、文字盤も、大きさも、全てに過不足がないオーセンティックな日本メーカーの時計。



「これは、お母さんからのお下がり! 高校受験の時にもらって、それ以来ずっと使っているんだ。時計を買おうとして他のを見ることもあるんだけど...結局これに落ち着いちゃうんだよね。流行りのデザインとかをお店で見ても、無意識にこれに近いデザインを探してしまって...結局、時計といえばこれ!みたいなイメージが自分の中でできあがっているんだと思う」

 出身は静岡県、高校時代から下北沢へ電車で出かけては古着を漁っていたキミホ。当時好きだったのはオーバーサイズの派手な柄物とかロング丈のワンピースとか。大学進学を機に上京して、なんでも自分の好きなものが選べる一人暮らしをするようになってから、今の嗜好やスタイルが形成された。今でも古着は好きだけど、より自分の身体に合うものを、着心地重視で選ぶようになった。服装ひとつをとっても、そんな小さな変化の積み重ねを経て、今でもキミホの左手首に落ち着いている。そんな一本だ。

「積み重ねを大切にしたいな、ってすごく思うようになって。お店でも企画でも、ちょっと意外性があるものに惹かれるんだけど、それって過去の積み重ねの上に成り立つと思ってる。昔からあるものが変わらないままじゃ受け入れられないこともあるけれど、それが新しい要素と掛け合わされる時に生み出されるものって、過去を否定しないからさ」

 たとえば、使われなくなった古い建物が、昔の役割や歴史と繋がりを持った形で新しい空間に生まれ変わる。何の脈絡もない新しいものに取って代わるのではなくて、過去をリセットするのではなくて、新たなものを積み上げる、そんな感覚か。
 そういえば、焼菓子店の屋号『カサネ』も...!?

「『重ねる』感覚を意識してお菓子を作りたいっていう思いがあって。目指しているのは、日常の隣にある、ごく普通に手に取れるお菓子を丁寧に作るお店なの。近くに住んでいる人や通りがかる人が日常を積み重ねていく中で、そこにあるちょっとした贅沢、一休みになればなぁって。だからいつかは実店舗を持ちたい」

 なるほど。今キミホがやっているポップアップやオンライン営業も、いつかは誰かの思い出になって、毎日の小さな幸せの一つになるんだ、きっと。今の時点でお店がどんな街にあって、どんな人に食べてもらって、どんなお菓子を出すのかはまだ決まっていない。これからの積み重ねで、きっと彼女にしかできない『カサネ』ができるはずなんだ。

 一方で、キミホには、「リセット癖」があるという。

「これまでの考え方の傾向なんだけど、自己否定をしがちなところがあるの。過去が重荷になってしまって、全部ばっさり捨てたくなっちゃう」

 意外にも思えるけれど、よく考えてみれば腑に落ちる。新しいものを取り入れるときには、それだけ足を使い、頭を使い、目や耳を使い、行動を起こす。生活環境や仕事が変われば過去の習慣や考えが煩わしく感じてしまうシチュエーションだって出てきてしまう。これはある意味、本能的に自然な考え方なのかもしれない。

「だけど、内心もったいないとは感じていて。過去の自分を否定しないで生きていけた方が楽しいよなぁっていう葛藤があったの。それに、そう考えられたら、他の人でも『そこにいるだけで価値がある』って思えて救われる人が増えるんじゃないか、って」

 葛藤の末にたどり着いた答えが、変化が起きる中で、新しいものをこれまでの自分自身の上に積み上げる、重ねる考え方だった。

「ちっちゃい頃から、お母さんとお菓子を作っていたから、お菓子を作る時間は自分を見つめ直す時間になるの」



 まさに人生そのものの積み重ねの第一歩が、幼少から続けてきたお菓子作りだった。

「元々は無意識のうちにやっていたことを『カサネ』を始めてから意識するようになったかな。コロナ禍で、すごく暇なのと、それ以上に人に会えない時間が辛くて。そんなとき、私に何ができるかを考えたら、大好きな人にお菓子を届けて喜んでもらうことかな、って考えるようになって」

 過去のキミホに、地元を出て、大学を出て、社会に出て、新しく思ったことを重ねた瞬間だった。

 今日身に着けている腕時計も、こうした積み重ねの間違いなく一部なんだ。初めて譲り受けて、腕に巻いたときのキミホは、今の生活や思いをまだ知る由もない。好きな服だって、楽しいことだってきっと違う。それでも、今もキミホには、この時計が必要だ。この先、新しい時計を買うときも、どこかこの時計に似たものを探してしまう。無意識に選んだものでも、気に入ったものはどこかにこの時計の面影が感じられる。

 『カサネ』のお菓子がいつの日か、誰かの日常にとってそういう存在になる日が来るはず。まずは今、キミホが作ったお菓子を手に取ってみたいと思った。
 


矢野仁穂(会社員、焼菓子店『カサネ』店主)
静岡県出身。大学進学を機に上京し、2020年より焼菓子店『カサネ』としてポップアップやオンライン販売の活動を開始する。7/31 8:30-11:00 高円寺の『小杉湯となり』で、焼菓子を出品予定(『cometo』内への出品)。
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