Old Me, New Me, New York #3
たとえば前置詞が一つ変わるだけで、同じはずの自分は違う自分になる
Contributed by COOKIEHEAD
Trip / 2024.04.30
#3
働くのは久しぶり。ましてや、ニューヨークで働くのは初めてで……。
パーソンズ・スクール・オブ・デザイン在学中にインターンシップをした会社からオファーをもらった2016年、私は卒業と同時に正社員に。就職活動することなく、「おかえり」「改めてよろしくね」と迎え入れてもらったのはとても幸運だった。東京では働いた経験がある「オトナ新卒」だったのもあり、仕事のリズムにはすぐに乗れたように思う。
前回触れたように、就職したのは日本のデザイナーブランド。アメリカ社会では日系移民と言える存在に、日系移民一世として近づいた感覚を抱く。
とはいえ、70年代にはニューヨークにも居を構え発展してきたこのブランド及び会社は、この街で日系何世と考えたらいいのかな。そして日本からのいわゆる駐在員はおらず、所属した営業・マーケティングのちいさなチームで、私はまたしても唯一の「日本の人」——その環境は、「日本らしい」「アメリカらしい」どちらなのかな。でもそういうことを考え出すと、自分のなかでなにかがぐらぐらと揺らぐのを知っている。
そういえば会社って「法人」とも呼ばれて、法律上の「人格」が認識される……法律のことはてんでわからないけれど、その考え方をぼんやりと借りてみるのはどうだろう。社員として働き向き合っているこの会社は「人」のようなもので、固有の「人格」がある感じ。そうやって、自分の働き方に「日本らしい」と「アメリカらしい」、そしてそのどちらにも定義されない固有の「らしい」が混在するのと同じように、このブランド及び会社も特有のアイデンティティを持つ誰かさんとして尊重することにした。
システムや仕組みなどの面では、「日本らしい」「アメリカらしい」がはっきり見えやすいものもあった。たとえば評価は、おそらく「アメリカらしい」に由来する感覚が強く、東京のそれしか知らなかった私には心地よさをもたらした。個人の得意な分野と苦手な分野を認識・共有すべく上司との個別対話が多く、それに応じて仕事をチーム内で調整し、そのうえで個人が評価される傾向が強い環境だったからだ。
得手不得手は誰しもにあるわけで、前者は生かして伸ばし後者はサポートしてもらえる文化のなかにいると、自分らしく働けるように感じたし、会社にとっても合理的だったんじゃないかな。場合によってはこれは成果主義の暴走を呼ぶ気もするので一概にいいとは言えないのだけど、自らの東京とニューヨークでの経験だけで比較するならば、東京よりオープンでのびのびしていた。
そしてもちろん、多様なのは得手不得手だけではない。出身、人種や肌の色、ジェンダー、セクシュアリティなど、実にさまざまだった。確か2017年だったかな、「自分のプロナウン(代名詞)はthey/themをつかってください」と自己紹介で述べたノンバイナリー自認の人がチームに加わった時、私はthey/themプロナウンやノンバイナリーについて知らなかったのだけれど、知識や経験がある同僚からも助言をもらいながら、当事者と働くことで理解したものだ。
ニューヨークで働くって、こういう感じなんだな。だんだんつかめてきた気がするぞ。
だけれども、そう思えるタイミングを見計らったかのようにいつもやってくるものがあった……パリファッションウィークの出張だ。
ニューヨークとパリ、それぞれ元大統領にちなんで名付けられた空港の間を、年に数回行き来した。どちらの元大統領にも、私は特別な思い入れがない。そのはずなのに、シャルル・ド・ゴール空港に着くと急に、スーツケースに「JFK」と書かれたタグをつけている人たちを目で追う。高校時代に1年であきらめた負い目を思い出させるフランス語が溢れるなかで、いろんなアクセントが混ざるとはいえ聞き慣れた英語に安心する。
パリ滞在中は、パリ支社のショウルーム兼オフィスが私の仕事場。東京、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、アントワープから社員が集まる。東京本社の何人かと近しくなり、仕事後にごはんを食べに行くこともあった。普段は英語でメールのやりとりをしていたから、日本語で話せる時間はなんだかこそばゆく、そして楽しかった。
そのほかにもロンドン支社の営業担当者と仲良くなって、それぞれのマーケットの傾向を共有したり、たわいもないおしゃべりをしたり。ある時、私がふざけて際どいジョークを言うと、彼はこう返した。
“Oh my, you sassy girl! Is that a New York thing?”
「やば、ナマイキ!ニューヨークならではって感じ?」
あら、私のジョークはニューヨークっぽいのかな?(“sassy”の方はスルー。「強気でイケてるナマイキ」といった感覚のスラングなので、褒め言葉としてありがたくいただく。)そこから、彼はその時まで私の出身が東京だと知らず、ニューヨーク出身だと思っていたことが発覚した。そっか、私の英語にはクセがあるものの、そういえば出身を伝えたことはなかったから、知らないのも当然か。
よく考えてみると、私はニューヨークでは “a Japanese person in New York”なのだけど、パリでは “a Japanese person from New York”という要素が強くなる。たかが前置詞、されど前置詞。違いを生む。
“A Japanese person in New York” は「ニューヨークにいる日本の人」で、出身がニューヨークの場合もあればそうでない場合もある。そしてそれはここでは必ずしも強調点ではない。
“A Japanese person from New York” は「ニューヨークから来た日本の人」で、その「から来た」は、「出身がどこか」という意味を持つのにくわえ、「今まさにいる場所にどこから来たか」にも焦点を当てることになる。前者と後者が同じ場合もあれば異なるケースもあって、私は異なる方。いつだって「ニューヨーク出身」ではないけれど、ニューヨークからどこかに出向くと、「今まさにいる場所にニューヨークから来た人」になる。(その「どこか」には日本も含まれると考えると変な感じだけれど、一時帰国中に「海外からの訪問者」と思われることが何度もあるのを思い出す。)
比較的距離を縮めていると思っていたロンドン支社の彼でさえ、私か誰かが言わない限り私の出身は知らないわけだから、では年に数度言葉を交わすだけの人たちは、どう思っているのかな。違和感が残る場面も想像できちゃう。パリでは“a Japanese person from New York”な私の、「本当のfrom」——またまたそうやって……そんな細かいことどうでもいいし、むしろミステリアスでいいじゃん!いやいや知っといてもらわないと、私は無自覚の状態で実際の自分ではない演者になっちゃう!
それを機に、ことあるごとに、自分が東京出身であることを会話のなかに必死に忍ばせていた時期があった。今がチャンス!という瞬間を逃さず、忍ばせる。そのほとんどは不自然だっただろうけれど、そんなの関係ない。自分の頭のなかにある「私の『本当のfrom』を伝えた人リスト」を長くすることで、安堵を得たかった……それだけではなんの糸口にもならない安堵は、気休めにすらならなかったにもかかわらず。
アイデンティティという言葉を、「自分とはなにか」というざっくりとした感覚でとらえてきた(少なくとも私は)。けれども、社会で生きていくうえでは、それには主観だけではなく他者から見られる際の客観性もおおいに影響する。〇〇人、〇〇出身、〇〇語話者、〇〇人種/民族、〇〇ジェンダーの〇〇、〇〇セクシュアル…… これらは誰かのことを知り理解を深める助けになるべきだけれども、偏見や差別を生む道具にもなる。属性は、個を集団としてより見えやすくするけれど、ステレオタイプなどの固定イメージを植え付ける可能性も持つ。
そして“Bonjour, Charles!”と“Hi there, JFK!”を繰り返す時の自分は、私にとってはどちらも「異国の都市にいる私」なのに、たった一つの前置詞に影響されるほど簡単に、客観性は動くんだ。私のアイデンティティは、東京にいた頃よりもずっと複雑で、おもしろいし、めんどくさいな。
おもしろいとめんどくさいどちらの場合であっても、どうしたらこのぐらぐらとちゃんと向き合えるかな……そこで私は、ほかの人々の経験や思いを聞く時間を意識的に持つようになった。これは、この頃覚えた自分のケアの方法だったと思う。いわゆるディアスポラ(広い定義で、なにかしらの理由で元の土地を離れ、ほかの土地に居住している人々のこと)の観点を持つ書籍や映像作品に触れたり、似たような思いを抱く可能性を持つ環境にいる方々と話したり。
こういう作業は、自身の経験からインパクトを受けているのは私だけではないと思える安心をくれるし、自分には見えていない側面があることをおしえてもくれる。たとえば、自分のアイデンティティが今ほど複雑ではなかったと私は思える東京や日本で、繊細とはとても言えない扱いを受ける人たちがたくさんいることがわかるように。
もう一つ覚えたことがある。多様な「複雑さ」を考える際、もしチェックリストみたいなものがあるとしたら、チェック項目の多い・少ないでその度合いが見えるかもしれないけれど、でもそれを「大変さ」の比較には発展させないということ。
ディアスポラの背景には、戦争や政治的困難、迫害などを理由に土地や国を移り、ほぼなにもない状態から新生活を始める例が無数にある。アメリカには、「奴隷」として連れてこられた人々の子孫もたくさんいる。
それらの例に比べたら、自らの希望で移住し、望みどおり進学し就職できた自分のようなケースの経験は、あえて数値化し相対評価するならば「複雑じゃない」し、きっと「大変じゃない」。
しかしだからといって、実際に経験する混乱や困難を「大変じゃない」と自ら矮小化してしまうと、そのケアをおざなりにしてしまいかねない。それは違うよな。自分と他者においてだけでなく、他者と他者の間でも、「大変さ」を比較すべきではないだろう。個人の経験はそれぞれ、度合いを測ったり順位をつけることなく、あまねく尊重されるべきだもの。(あ、人事評価でいわゆる絶対評価があると働きやすいと感じたのと、どこか似た感覚かもしれないな。)
こう考えると、アイデンティティをぐらぐらさせるいろんなことをわきに押しやることなく、文章や映像などで他者に伝える人たちやその作品の存在はかけがえのないもので、出会えてよかったと切に思う。そういう人たちの、ときにちくっとするほど切実で、じっくりと入ってくるていねいなメッセージにたくさん触れることで、自分のぐらぐらを恥ずかしいともかっこわるいとも思わなくなった。
だから、こうやって私も書くことができる。いや、書くとなると恥ずかしいっちゃ恥ずかしいし、その文章はかっこわるいっちゃかっこわるいかもしれない。でも、経験のストーリーやその人なりの思いが誰かから誰かに伝わることで、アイデンティティや属性の複雑なあり方は、よく見えるようになったり、豊かさを増したり。その一つひとつはたとえちいさくても、残すことできっとおおきくなっていく......本人のなかでも、その周りでも、もしかしたらその人の知らないところでも。
この気づきこそが、実はもっともよろこばしいことだったのかもしれない……まさにぐらぐらするこのコラムの終わりを探っていたら、それにたどり着いた。
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COOKIEHEAD
東京出身、2013年よりニューヨーク在住。ファッション業界で働くかたわら、市井のひととして、「木を見て森を見ず」になりがちなことを考え、文章を綴る。ブルックリンの自宅にて保護猫の隣で本を読む時間が、もっとも幸せ。