Old Me, New Me, New York #6
右から左から……行間を彷徨う
Contributed by COOKIEHEAD
Trip / 2024.06.11
#6
「趣味はなんですか?」と聞かれて「読書です」と答えたら、実際のところどう受け止められるんだろう。1. 無難というか、つまらないなぁ。2. 趣味の話をしたくないから、手堅い読書でカモフラージュしているのかなぁ。3. 「自分、本読むんです」アピールかなぁ。4.本当に読書が好きで、そう答えているのかなぁ。
私が答える「趣味は読書です」は、4だ。無難な印象を持たれたり、お高くとまっていると思われるかもしれないけれど、ただただほんっとうに読書が好きなんです、の4。
好きの度合いを示すとしたら……読書と読書の合間に、読書をするくらい。地下鉄で読んでいてキリの悪いところで目的の駅に着くと、駅に居座って読み続けるから遅刻するくらい。その反省から、歩きながら本を読む練習をしたこともあるくらい。図書館でボランティアしているくらい。読書が好きな友達と本や読書について話していると、この時間よ永遠に続け、と願うくらい。……けっこう好きだと思う。
読む本は、私の場合は日本語と英語の2言語。といっても、その比率は変わってきた。変遷を経てたどり着いた今の読書バランスからは、現在の私のアイデンティティと、自分がそれとどう向き合っているかが、趣味に反映された形で見えるように感じる。
日本に住んでいた頃は、読書のほとんどは第一言語である日本語だった。右綴じの本を左に開き、縦書きの文章を右から左に、たくさん読んできた。それがすべて逆になる英語での読書を少しずつ始めたのは、中学生の頃。英語を熱心に学んでいた自分に、読書も英語で挑戦するよう課す感覚だった。
新宿の大型書店上階にあった洋書コーナーで選んだAmy Tanの”The Joy Luck Club”(『ジョイ・ラック・クラブ』エィミ・タン、訳:小沢瑞穂)が、英語で読んだ初めての長編小説だったのを覚えている。思い出のその一冊は、ブルックリンの自宅に今もある。
比較的易しい小説なのだけれど、本と辞書、一体どちらを読んでいるんだろう?と思うほど何度も辞書を引いていたら、何ヶ月もかかった。わからないことも残したまま読み終えた。ふぅ。そしてまた洋書コーナーに戻り新しい本を選び……そのサイクルをほそぼそと、日本語での読書のかたわらずーっと続けていた。
しかし11年前にニューヨークに移住して、私の読書環境はがらりと変わることになる。現地大学に通ったのもあり、そして日本語書籍が手に入りにくくなったのもあり、読書はほぼ必然的に英語ばかりになったのだ。否応なしに英語で読まなきゃいけない日々が来るよ……なかばムキになることもあったかつての自分におしえたい(自ら挑戦したこと自体は、無駄ではまったくなかったけれども)。
日本語に比べたら、読むスピードやなめらかさ、内容の理解や表現の享受は、英語だと劣るのを今も実感する。でもいつからか、第二言語で読むことを楽しめるようになった。言語としての英語やその背景の理解も、読書を通して広めたり深めたりできていると思う。
読む言語が2つになると、しかもその内の1つが英語だと、本の選択肢はぐんと増える。困ってしまうくらいに増える。なので、いろんな本に触れる機会を大事にしているとはいえ、ほどほどにばっさりと取捨択一しないといけない。私は小説と自叙伝が好きで、特に社会のうずうずっとしたものやどろりとしたものと向き合い、それを著者それぞれの独自の言葉や表現で想像させ惹きつけるものに出会えると、喜びや満足を得ることが多い。
社会で置いてきぼりにされがちな視点で書かれたものも、よく手にとる。なかでも、アジア系アメリカ文学を読む機会が増えた。ニューヨークでマイノリティとして暮らす時間が長くなるにつれ、自分との近似性が高いアジア系アメリカ人の存在を読みたいという関心が育ったのは、私にとってはごく自然なことだった。
しかしよくよく考えてみると、アジア系アメリカ人(Asian American)という言葉は定着して久しいとはいえ、それがカバーする範囲は広い。「アジア系」と「アメリカ人」、2つに解体して考えてみる。
アジア系という言葉はまるで人種を表すかのようにつかわれがちだけれど、実際には大陸をベースにした属性……アジア大陸はとんでもなくデカいのに。私のように極東や東アジアと呼ばれる地域の人から、多くの中東諸国を含む西アジアの人まで、つまり人種・民族、言語、文化も宗教もなにもかもかなり違う可能性を持つ人たちが、大陸ベースで漏れなくアジア系になる。
アジア系の表象拡大やエンパワメントが叫ばれる機会は増え、それに救われることは多い。けれども、アジア系という言葉が抱え込む実に多様な人々、文化や歴史の理解が深まらない限り、アジア系という括りはぞんざいに扱われ、それは残酷でもある。
実際にアメリカでも世界でも、人口比率などにも影響を受けつつ、「注目されるアジア系」と「忘れられがちなアジア系」は残念ながら存在する。たとえば、特に2020年以降急増したアジア系の人々に対する差別や暴力に対して、#stopasianhateは広まったけれど、であればその内のどれだけが、今まさに土地と命が奪われているパレスチナとその人々について、同様の連帯やアジアのこととしての視点も併せ持っているのだろう……。選り好みする#stopasianhateは欺瞞だと思うと同時に、アジア系という括りそのものが持つ限界を感じる。
「アメリカ人」の部分だって、すごく複雑。親かそれより前の代でアメリカにやってきた移民(2世以上)と、私のように自ら渡航し定住した移民(1世)では、経験は異なる場合が多い。ルーツとなる土地や国との距離も違ってくるし、ミックスルーツの人たちもいる。そもそも移住の理由もさまざまだ。
また、私のように紙の上ではアメリカ人ではないアジア系移民も、アジア系アメリカ人の拡大解釈に入ることは多い。実のところ、藁にもすがる思いで居場所を求めて、自らそこに入れてもらうよう望んでいる自分に気づくこともある。とはいえ、そうやってアジア系アメリカ人の事実的隔たりを超えることは、前向きな連帯なのか、実際にそこにある違いを無視することになるのか、考え出すと混乱してしまい、彷徨うことになる。
つまりアジア系アメリカ人は、よく言えば広くを受け入れる属性、悪く言えばつくづく雑な属性なのだ。そのざっくりさによる弊害が、なにかしらの形で実生活に現れることもある。アメリカは多様であるけれど、その多様さと真に向き合えていない以上、異様でもある。
アジア系アメリカの表象拡大やエンパワメントを唱えるならば、その多種多様な経験を知り、そして伝えられる個別のストーリーを祝福することの意味を重んじ、ていねいに向き合う……ハッシュタグだけではかなえられないこういったことを、私たちは続けていかなくてはいけないんだろうな。読書はその手段のおおきな1つ。アジア系アメリカのコミュニティ内だけでなく、むしろその外にいる人たちこそ読むべきだとも思う。
そういえば、先述の初めて英語で読んだ長編小説”The Joy Luck Club”は、1989年に発表された中国系アメリカ人の物語で、著者Amy Tanは中国系アメリカ人2世。中国からアメリカに移住した4人の女性たちと、アメリカで生まれ育った娘たちが登場する。中国系アメリカ移民という特定の存在であっても、その4人の移住の背景や経験、抱く思いは異なることや、あわせて娘たちも描くことで世代間のズレを含めたさらなる違いが生まれることを示す。新宿でこの本を選んだ理由は今となっては忘れてしまったけれど、なかなか気の利いたチョイスだったね、とも15歳の自分に伝えたくなる。
くわえて、私の読書にはここ数年で際立って変化した点がある。日本語で書かれた日本の書籍を猛烈に恋しく思うようになったのだ。手に入る限り、むさぼるように読んでいる。そのきっかけはなんだったんだろう。
いくつかある理由のなかで、アメリカで日本文学の翻訳がぐっと進んだことがおおきいように思う。私が11年前に引っ越してきた頃は、アメリカで英語で読める日本文学といえば村上春樹が圧倒的に人気で、あとは文豪と認識されるようなレガシー的存在(主に男性)の英訳書籍を書店でちらほら見かける程度だった。それが今は、日本の女性作家による現代文学が次々に翻訳されていく。
村田沙耶香、川上未映子、小川洋子などなど多才で多彩な作家による、日本で純文学と呼ばれる小説がとりわけ選ばれている、というのが私の肌感覚。アメリカで日本女性には「おとなしい」というステレオタイプがつきまとう傾向があるけれど、「ものを言わない」はずの日本女性の声が急に聞こえるようになって、関心を集めているのかな。「普通」の日本女性が、社会に求められる「普通」を生きる孤独や苦しさが、伝わっているのかな。柳美里や李琴峰のように、韓国や台湾にルーツを持ち、日本で日本語で書く作家の本も英訳されている。日本の多様な書き手たちの存在が、より見えやすくなる。
アメリカでは「新しい」日本文学が、左綴じで右に開く本で、左から右に横書きの英語で読まれている。すると、その喜ばしい現象を目にする機会が増えるにつれ、彼女たちが日本語で書いた文章をそのまま自分の第一言語で読みたいと思うようになった。せっかくなら、昔から慣れ親しんできた右から左のスタイルで読みたいな、とも。
それが今では、自分と自分のホームの間にどうしても広がっていく距離を意識し、できることならこれ以上遠くしないよう励む作業みたいなものになっている。
飛行機に乗れば、13時間程度で国に帰ることができる。インターネットがある今、物理的距離をさほど感じずに日本とつながることもできる。それでも、ホームから離れる期間が長くなればなるほど拡大する時間的距離と、そこでの言語表現や人々、社会に触れていないことで広がる文化的距離は確実にあって、それらを埋めるのはたやすくない。読書が果たす、ホームとのつながりの維持や再構築の役割……それが実感できると、喜びと切なさのどちらも覚える。このつかみどろのない維持や再構築はむしろ、表現や文化のなかに自分の身を置き、彷徨うことでしかできないようにすら感じている。
アメリカでアジア系であるゆえに関心を引きつける英語のアジア系アメリカ文学と、ホームやルーツを思い惹かれる日本語の日本文学......どちらにも触れていたいという渇望。それはまさに、今の自分は2つのアイデンティティの狭間で揺れているけれど、どちらか1つに決めなくてはいけないわけではなくて、どちらでもあるという自分のありのままの姿と向き合いたい気持ちの現れなんだろうな。
右からも左からもせっせとページをめくっては、縦と横の行間を彷徨うことで、実際に彷徨っている自分を知っていく。そう考えると、人によっては無難だったり気どった趣味に感じるかもしれない読書は、私にとっては実になにものにも代え難い営み。
だから今日も、他者のストーリーテリングに触れ、自分のアイデンティティと向き合う時間を過ごす。きっと、これからもずっとそうしていく。地下鉄が目的地に着いて本を一旦閉じたとしても、行間の彷徨いはそのあとも続いていくように。
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COOKIEHEAD
東京出身、2013年よりニューヨーク在住。ファッション業界で働くかたわら、市井のひととして、「木を見て森を見ず」になりがちなことを考え、文章を綴る。ブルックリンの自宅にて保護猫の隣で本を読む時間が、もっとも幸せ。