つるつるじゃないから、ざわざわする

Old Me, New Me, New York #7

つるつるじゃないから、ざわざわする

Contributed by COOKIEHEAD

Trip / 2024.06.25

東京からNYCに移住して11年。ファッション業界で働くかたわら、ウェブマガジン『THE LITTLE WHIM』やその他媒体での執筆を通して社会やコミュニティにまつわる自身の思いを発信し続けるCOOKIEHEADさんが、今までを振り返り、現在を見つめ、未来を想像し、自分のアイデンティティを模索する中で見つけた、「わたし」を見つめ直すためのヒントをお届け。

#7



「あ!みんなでセルフィー撮ろうよ」

 誰かが言う。友人と過ごす楽しい時間を写真に残したい気持ちはあっても、同時に、自分のなかでなにかがざわざわし始めるのを感じる。

 スマホを中心にして、みんながぎゅうっと集まる。隣の友人をちらっと見ると、つるっとした頬がふっくらと盛り上がり、つややかな笑顔をつくっている。すると、私のコンプレックスが顔を出す。

 ……私は、自分の肌に自信を持つのがむずかしい。自分の肌が好きではない。10代の頃から荒れやすかった私の肌には、過去のニキビが跡として居座り、歳を重ねるにつれシミや小ジワも共存するようになった。

 スマホのカメラは高性能になったけれど、その性能のよさはどちらにも転ぶ——角度や光によって、写真のなかの私はいい感じに見える時もあれば、肌の「アラ」がぎょっとするほど目立つこともある。あぁ、今日はどっちだろう……。



 こういった、自分の肌のことを考えると気持ちまでもなめらかではなくなる瞬間が、私にはたくさんある。わかる……!と思う人も、そんなこと気にしなければいいのに......と感じる人もいるのではないかな。

 だけれども、ここ数年で自分の肌の状態に対する姿勢は少しずつ変わってきた。そのきっかけに、スキン・ポジティビティとスキン・ニュートラリティの言葉、そしてその意味を知ったことがある。それらを通して、個人が肌と向き合うためのさまざまな側面を考えるようになったのだ。

 スキン・ポジティビティとスキン・ニュートラリティ、すでに知っている場合も多いと思うけれど、それぞれが意味することを私の理解が及ぶ範囲で書いてみる。

 スキン・ポジティビティは、肌の状態や見た目は人それぞれ異なることを理解し、自分のありのままの肌を受け入れ、愛し、自信を持つことを奨励する。そしてそれを妨げるものの一つである、偏ったビューティ・スタンダードの解体を唱える。テレビ・映画・雑誌やソーシャルメディアなどで頻繁に目にする「完ぺき」で「理想的」な肌は、現実的ではないのだから。

 スキン・ニュートラリティは、そもそも肌の状態や見た目で人の価値が決まる状況を疑問視し、そこから自分たちを解放する状態を目指す。具体的には、外部から判断される肌の美しさに執着したり、それゆえにスキンケアやメイクアップ、施術などにムキになることを考え直し、自らがそのバランスの鍵を握るためのマインドセット・シフトみたいなもの。

 (ちなみに、スキン・ポジティビティとスキン・ニュートラリティはそれぞれ、ボティ・ポジティビティとボティ・ニュートラリティの一環や、並行するものと言われる。)

 この2つの言葉を初めて聞いた時は、字面の直感的な印象から、スキン・ポジティビティはプラスの状態、スキン・ニュートラリティはプラスでもマイナスでもない状態なのかな?とすると、私はどっち派だろう?と考えた。けれど今は、どちらも大事にしたいと思っている。それぞれの異なる強調点を意識することに意義があるように感じるからだ。前者は社会的・文化的課題に挑戦する要素が強く、一方で後者は個人の精神的・認知的転換にフォーカスがある、といったところだろうか。それらが相互に作用していく感覚。

 くわえて、数年前に読み、肌について考えるうえで思考をさらに刺激した文章がある。2019年にThe New Yorker誌のウェブ版に寄稿された、”The Age of Instagram Face”というエッセイだ。同じ頃に読んだエッセイ集”Trick Mirror: Reflections on Self-Delusion”(日本語訳未発表)の著者ジア・トレンティーノ氏によるものだったのもあり、興味を持った。



 タイトルにある”Instagram Face”という言葉は、この記事でトレンティーノ氏がつくり出したと言われている。その時どきのビューティ・スタンダードに即した美容医療・美容整形などの施術や写真フィルターにより、個々の特徴が消え「同じ美しさ」を持つようになっていく人々の顔を、風刺を込めて表現する。アメリカに限らず、日本でも「インスタ顔」は見られるんじゃないかな。トレンティーノ氏は大胆な言葉を用いながら、その現象を寄稿文のなかでさまざまな角度から考察している。

 そのエッセイには、以下のような一節がある。

“In a world where women are rewarded for youth and beauty in a way that they are rewarded for nothing else—and where a strain of mainstream feminism teaches women that self-objectification is progressive, because it’s profitable—cosmetic work might seem like one of the few guaranteed high-yield projects that a woman could undertake.”

「女性が若さと美しさによって讃えられ、そのほかのものでは報われず、さらにはメインストリームなフェミニズムの一部が、自己客体化は利益を生むゆえ進歩的であると女性に教える世界――そこでは、美容施術は、女性が確実に高い成果を得られる数少ないプロジェクトの一つのように思えるのかもしれない。」(筆者訳)

 ぞぞぞっとしてしまった。外見上の若さや美しさが女性に社会的な承認や経済的な利益をもたらし、ゆえに自らを客体化し美容施術を利用することが「進歩的」とされる世界って……。そしてその逆もあるとしたら、自らを客体化せず、美容施術も利用しない女性は「進歩的ではない」ってことにもなるのかな……。でもって、そんなことがフェミニズムの名のもとで語られ、個人の頭のなかに植え付けられる可能性がある……。

 そうやって、現実的ではない、画一的な美がそこかしこに溢れていく。女性(すべてのジェンダーかもしれない)が、どんだけ資本主義や家父長制の喰いものにされたディストピアかって感じだけれど、いな、それが現実ってことかあはは(笑えない)。

 そんなのやってられません!という思いが、スキン・ポジティビティが唱える社会的・文化的要因への挑戦と、スキン・ニュートラリティがフォーカスする個人の精神的・認知的側面の転換、その両方の意義をより見えやすくした。

 そしてそれによって、セルフラブと呼ばれるものが形づくられていくのも感じるようになった。社会をじっくり観察しながら、自分と周りとのバウンダリーをしっかり引くようにも努める。自らにとって有害なものは手放し、必要なものはそばに置いておく。それは自分を大切にしていくことにつながっていく。



 こうやって書くと、スキンケアやメイクアップ、さらにそこから踏み込んだ美容施術などを、まるで有害かのようにしてしまうかもしれない……けれど、そういったもの自体が有害なわけではまったくない。手放すよりそばに置いておきたい人はきっとたくさんいる。女性に限らずあらゆるジェンダーにとって、楽しさや幸せ、自信を得る手段になり得る。

 特に、一時帰国して東京の友人と話していると、美容施術が話題に上がる機会はぐっと増えたと感じている。その多くは、私自身を含め、年齢的にあると言われる「お肌の曲がり角」を通過した年代にあたる。一昔前はタブーとされがちだった美容施術について、友人たちは臆することなく話す。カフェや居酒屋で、いろんな情報や報告が飛び交う。

 ニューヨークでも、美容施術の話題がカジュアルに出てくる場面を経験する。たとえば職場で、「おでこにボトックス入れてくるわ!」と、わくわくしながら長めの昼休憩に出る同僚。週明けに、金曜日よりふっくらした唇にるんるんでリップバームを塗りながら、「痛くなかったよ」と話す上司。まるで新しい靴を履くのと同じように、それらは見えるもの。かといって、本人が話さない場合は、「その靴、いい感じ!」と持ちものに対して声をかけるのと同じ感覚で、「唇イケてるね!」とはさすがに口にしないけれども。

 やはり身体のこととなると、関係性や状況にもよるとはいえ、繊細なトピックではある。施術に躊躇する人や、話したくない人もいるのは考慮しなくてはいけない。それでも、東京とニューヨークどちらでも見かけるある程度のオープンさは、闇雲にタブー視するよりずっと小気味よい。

 だけどだけど、スキン・ポジティビティやスキン・ニュートラリティ、そしてセルフラブのあり方がやっとわかってきた私は、どんどん進む美容施術の一般化を見ていると、矛盾してしまうというか調和がとれない感覚にもなってしまう。うーん。どこかに境目みたいなものがあるのかなぁ。

 こういったもやもやを抱く時、ふと視野を広げてみると、違うところで話されるなにかが急にヒントになったりする。私の場合は、SRHR(Sexual and Reproductive Health and Rights、性と生殖に関する健康と権利)の話題でよく耳にする”My body, my choice”(「自分の身体のことは自分で決める」)の考え方が、このもやもやを晴らす役割を果たした。

 “My body, my choice”は、性(性交渉、性自認や性的指向など)と生殖(妊娠や避妊、出産、中絶など)の健康に関する適切な情報・知識、それらに関わるヘルスケアへのアクセス、そしてその自己決定権はすべての人々が持つ/持つことができるべきだという主張。これは多くの人々の生命に直接的に影響するほど重要で、しかし政治に利用されることがあるゆえ、特に女性とLGBTQ+の権利を守るうえで欠かせない視点だ。



 なので次元は違うところにあるのだけれども、私が混乱してしまう美容施術についても、”My body, my choice”の核となるポイントは拝借できるんじゃないかな。

 そのポイントとは、自己決定とそれを可能にするもの。なので美容施術においても大切なのは、適切な情報に基づく、自主性による動機・選択・決定——「自分で決める」のプロセスを守ることを尊重すると、個人レベルでもやもやしてしまう矛盾やアンバランスさは、すっと解消されるように思う。そしてここには、施術をしない選択も含まれる。(肌の状態には疾患として治療が必要なケースも多くある。その場合も、適切な情報と治療へのアクセス、選択の自己決定は守られるべきである。)

 同時に、社会が外見に与えるプレッシャーだったり、悩みや不安を増大させる煽り、ましてや自己客体化が「進歩的」なんていう根拠で、美容を押し付けられるのはもってのほかだということが、ますますはっきりする。ほそぼそとセルフラブをこしらえているのに、それまでも乗っとられてたまるものか……!

 と、こうやってあちこちしながらつらつらと書いてはいても、掬いきれていないものはあるだろうし、そもそも絶対的な正解に辿り着いているわけでもない。事実、私は今も自分の肌に自信はないし、好きになれていない。つらつらと書けるようになったのであれば、以前よりは楽なところにいられているのかな、とも同時に思う。「肌の状態」に理想を追い求めるばかりではなく、「肌をとりまく環境」の理想が見えたら、向かう先はこわくなくなっていくはず……みんなが少しでも安心できるスペースを広くしていくことで、なにかをがらがらと変えていく動きはひっそりと始まるのではないかな。



 ある夜、すっぴんの私はニューヨークから、東京にいる母とテレビ電話をしていた。自分の肌を若い頃からそのまま見せてきたのは、母だけだ。私の肌に記録されてきたこれまでの悩みとも、少しずつ増えていく加齢のサインとも、やさしく静かに向き合ってきてくれた存在。私の今の肌を画面越しに見ながら、ぽろりと溢すように、「そういうものよね」と母は言った。

 ……うん、そうだね。「そういうもの」だよね。きっと私は、ずっとそう思いたかったんだ。母も、表面も内面もひりひりしてしていた娘に、この当たり前の言葉をもっと早く伝えられたら楽だったんじゃないかな。

 画面下部、四角い枠のなかに映る自分が目に入る。ちいさなセルフィーみたい。どうやら私は、ざわざわしていないようだ。



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