
London, Can you wait? #14
Can I get your Instagram?
Contributed by Chika Hasebe
Trip / 2025.03.24
#14
今回はインスタを聞くこと、写真を撮ること。
もはやこの話、ロンドン関係ないよなと思いながらも、最近ずっと頭の中でぐるぐると考えているので、記してみる。
まず、わたしはインスタを聞くことも写真を撮ることも恥ずかしい行為だと思っている節がある。一つずつ説明する。
インスタ聞くのって当たり前なの?
前者についてはあまり考えたことはなかったのだが、ある友人の一言がきっかけで気になり始めた。イギリス人の友人を、日本人の友人グループのパーティに連れて行ったときのこと。彼は社交的なので、わたしの知らない間にも色んな人と話していたようだ。その場を出たあと、彼が不思議そうに聞いてきた。
「なんで日本人ってみんな(自己紹介で)名前を言い合ったあとすぐ、インスタを聞いてくるの? まだ会話すら始めていないのに、テンプレみたいにみんな聞いてくる。これって日本人の文化?」
彼はかなり歯に絹着せぬ物言いをするので、だいぶグサっと来たのだが、確かに一理あると思う。なぜ相手のことをよく知りもしないのに、インスタを聞くことに抵抗感がないのか? これが日本人特有の人間関係の入り方なのかどうかはわからない。ただ、確かにロンドンで日本人以外の人と知り合うときに、作品を見せる目的などでお互いのプロフィールを見せ合うことがない限り、あまり“インスタを交換する”場面が存在しない気はする。Whatsappは持っているが、未だにインスタは知らないなんてことも(ただこれを書いてから早速インスタ交換する機会があったので、やっぱり国は関係ないのかもしれない)。

一方で、インスタは口頭の自己紹介以上に、その人を表すコンテンツでもあることは事実だ。特にアーティストの場合、ポートフォリオ的な役割を持つこともある。インスタ経由で毎日仕事が生まれていることを踏まえると、蔑ろにできない。初めて会っただけではわからないその人の興味関心、スタイルなどについて、インスタはわたしたちに知識と連絡手段を補ってくれる。会ったときにはわからなかった、その人の意外な面や自分との共通点を教えてくれる。むしろ対面よりもインスタを通じて仲良くなったりもする。
友人から投げかけられた問いに一つの答えを出すとしたら、「初対面のインスタ交換は日本人全体の当たり前ではないが、ロンドンにワーホリで移住してきたアーティストの日本人の中では一般的な行為」なのかもしれない。前述した通り、インスタは自己紹介以上に自己紹介の役割を果たす。学生とも異なる、ワーホリという後ろ盾のない手段で身一つ日本から飛び出して、異国の地で根を張るには、どんなところに落ちているかわからない手がかりは掴めた方がいい。特にアーティストの人は、仕事の受け口として名刺感覚でインスタを交換するのだろう。

だからもし聞かれたらわたしは喜んでインスタを交換したい。ただ自分からは恥ずかしくてあまり聞き出せない。わたしが恥ずかしいと思ってしまうのは、インスタを聞くという行為の先になんらかの“目的”が見えてしまうような気がするからだ。もちろん誰かから聞かれたときに、なにかを求められている感じは全くしない。それでも、自分が聞くとなると、なんとなく純粋な友達関係ではない何かを相手に期待しているように自分が感じてしまうので、モヤモヤする。
何度もいうが、インスタは仕事を生むプラットフォームだから、目的ありきでインスタ交換するのももちろんいいと思う。むしろスマートなやり方ですらある。ただ自分では恥ずかしいと思っちゃう部分があると言いたいだけなのだ……。やっぱり考えすぎなのかな。
みんないつ写真を撮っているの?
レストランに行っても写真をあまり撮らなくなった。全く撮らなくなったと言ったら嘘。むしろ一人で美味しそうなご飯に顔をくっつけてパシャパシャ撮っているときすらある。それでも全体的に言うと数年前に比べてかなり減ったと思う。
理由は、目の前に出てきた料理にカメラを向けた瞬間、なんのために食べにきたのかわからなくなる気がするから。まともや考えすぎというか、意識過剰なのかもしれないが、どうしてもこの考えが拭えず、見た目もうっとりするような丁寧な料理のレストランこそ、写真を撮る行為を遠慮しがちだ。撮ったとしても、なかったことにするぐらいのさりげなさで撮るので、あとで振り返ると大体イマイチな写真しか残っていない。

うまく撮れないので撮ってもらった
そもそも写真を撮るというのは、記録に残すための行為のはずだった。それが今では記録よりも見せるための行為になっている。

プレートがテーブルに運ばれてから料理を口にするまで、つまり、視覚の「わあすごい」から味覚の「わあすごい」に移るまでは、その食事を感じる大切な時間のはず。それなのに写真を撮る行為によって、料理と向き合う体験が一旦途切れてしまうような気がするのだ。写真本来の記録的な意味で、食べる前に一、二枚撮るならまだだが、例えば素敵な写真を撮るために器やグラスの位置、ライティングなどを調整するために色々動かして試行錯誤するとなると、もはや最初の視覚で味わった感動は、いざ食べるときにはとっくに忘れている。本来レストランに来た意味もよくわからなくなってくるし、せっかく作ってくれた人に対しても少し申し訳なさを感じる。

もう一つの理由は、レストランで写真を撮る人を見かける場面が少なくなったから。これは東京にいたときと比べてなのだが、ロンドンであまりレストランで積極的に写真を撮っている人を見かけない。
まず、外食は人と食事をするという認識なので、あまり一人で食事をしている人がいないのだ。バーガーチェーン店のFive Guysですら一人で食べているのがわたしだけで、ちょっと浮いている感じがしたことが何度かある。東京のラーメン店を巡って記録として写真を撮る、マイルストーン的な外食目的の人は少ないのかもしれない。

また、これは仮説レベルなのだが、みんな日本人ほど新しいもの好きではなく、安定志向なのかもしれない。決まったビール、決まったレストラン、決まった旅行先。だから自分が体験した料理や体験をシェアしても、それに興味を持つ人はそこまでいないのかも。もちろんニューオープンはなんでも話題になるぐらいだから、新しいものが人気にならないわけではない。

それにレストランでは写真を撮る人を見かけないのに、実際にSNSでは料理やレストランの写真を日々たくさん見かける。ということは、わたしが気づいていないだけでみんな写真を撮りまくっていたり、いなかったり……? それでもわたし個人の感覚的には日本人ほど新しいものに興味がある印象を受けず、自分がいいと信じたものをリピートする傾向を感じるので、日本人ほど写真を撮って記録したいという意識がないのかも。
実は写真はもっと撮っていきたい
でも写真を撮ったほうがいいなと思うこともある。人って思った以上になにも覚えていないからだ。少なくともわたしなんてなんにも覚えてない。それに気付かされるのは、写真を見返したとき。写真を撮ったことすら覚えていなかったイベントたちに、写真をみて初めて思い出させられる。
それにこうやって文章を書くときに、所々に写真を入れないと味気ない。特にこの連載では日常の写真を使っているので、日頃から何気なく貯めておかないとストックがなくなってしまう(今でも毎回ギリギリのストックで困っている)。

苦手な写真。@shibuyameltdownなどもそうだが、道端で遭遇した変なもの、ちょっと気になる人を撮影して投稿するなんてざらにある。写真を撮るまではプライベートな行為。だが、そこからSNSに投稿となると、さすがに勝手に撮られた人はどう思うのか気になるところだ。
最近わたしの考えすぎは友人の写真にも及んでいる。例えば自分が撮った友人の写真をSNSにアップしようとするとき、ポーズして撮った写真ならまだいいが、何気なく撮った写真などはあげていいか確認してからアップすべきかもとグチャグチャ考えた挙句、何もアップしないに至る。
例えばインスタのストーリーならどんなコンテンツも一応24時間で自動的に見えなくなるのでさほど深く考えないが、インスタのフィードはプロフィールに残るものなので、友人の写真を載せることがほぼなくなった。先日友人がわたしの写真をインスタにアップしてくれて、それはとても嬉しいことだけれど、わたしはあまりいい顔をしていなかったことがあった(いつも写真写りにはあまり満足していないのもある)。

こんなことばっか考えてるから母親から屁理屈やめなさいっていっつも怒られてたんだろうな。
ロンドンに来て一番学んだことは、「誰もあんたの自意識なんて気にしていない」。色々と自分の持つためらいの気持ちを書いてみたが、結局のところはみんなやりたいようにやればいいと思う。わたしも、もう少し写真は撮ろうかな。
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Chika Hasebe
1998年生まれ。2023年5月よりロンドンに拠点を移し、報道記者の仕事に従事する一方、フリーライターとしてカルチャーについて発信もしている。










































































































































