“Travel is ENCOUNTERS” (アリゾナ篇) #17

“Travel is ENCOUNTERS” (アリゾナ篇) #17

Contributed by T.T.Tanaka

Local / jul.16.2019



神社?みたいな記念碑



折り鶴

神社?
Poston, Arizona; by T.T.Tanaka

「わ、あ、あれ、えー、何・・?

い、石灯籠! ひょっとしてあれかな・・?」

砂漠の中の道路脇にそれはあった。アリゾナの西のはずれの小さな教会の神父さんが、

「日本から来たのかい? 一時間くらい向こうにshrine(神社)があるよ。。」って言葉が頭の中を流れた。

ブレーキを強く踏んで車を止めた。歩を進めて真っ先に目に飛び込んできたのは色あせた折り鶴たち。砂漠の中でここだけ突然、間違いなく日本テイストだった。今までにない緊張が心の中に走った。



道路の傍らに元教会。収容所の人達の祈りの場。屋根の上には鐘がある。道路と元教会の間にはかつて有刺鉄線が張り巡らされていたようだけど今はない。



75年前くらい前に鳴っていたこの鐘は二度と鳴らないのだろう。。この鐘を鳴らした人もすでに亡くなっているのだろう。。



教会名のペンキがはがれていて読めない。。



教会の窓の内側に花柄のレースのカーテン

少し離れたところには廃墟となった建物。元教会だった。閉じられ、もう何十年も使われていないのだろう。。 ペンキの文字もはげ落ちている。そして、窓の内側にレースの花柄のカーテン。確信した。昔の日本人のインテリアの感覚だ。

ここPostonという町は今、人口350人くらいでアメリカ先住民(アメリカインディアン)たちが住む。しかし、かつてここに17,000人を超す!日本人が強制収容されていた。1943~45年。第二次世界大戦で日米が戦ったときだ。

日本人強制収容の知識は少しはもっていたけど、まさか自分が訪れるアリゾナでそのことが目の前に展開されるとは。。 愕然とした。

アメリカは様々な国々からの移住者たちなどで建国し歴史を築いてきた。日本からも色々な思いや夢を抱き渡った人たちが沢山いたんだね。場所によってはチャイナタウンのような日本人街もあったんだ。1941年アメリカのハワイを攻撃した日本。敵国日本と同じ出身だから危険という理由で「アメリカ市民」であった日系人たちを法律で強制的に全米の10カ所に計12万人!を3年間!終戦まで収容した。1988年にレーガン大統領がアメリカ国家として過去の誤りを認め謝罪し、二度と同じ誤りを繰り返さないことを誓った。



わずかに一つだけ残っていた建物。その向こうにはずーっと更地が広がっている。砂漠の中。大木が育っている。





収容されていた人たちは終戦とともに、ここからそれぞれ散っていった。残っている建物は74年前のその時点のまま呼吸を止めている。放置されたまま厳しい自然の中、木造の建物たちの大半は崩れてしまいわずかしか残っていない。砂漠の中で不自然な更地というか空き地がずーっと広がっていて、家の跡の柱が残ったり崩れた建材が積まれていた。残っていた一棟。屋根はなくなり窓ガラスも消え、梁と床と壁が残っていた。あと数年もたつとそれも崩れ落ちてしまうだろう。

このポストンには当時3つキャンプがあって、保育園から高校生までの子供たちは5,500人もいた。各キャンプ毎に、自分たちで学校をつくり、教育をし、スポーツに励み3校の対抗もやっていたらしい。

学校建築のためのレンガは自分たちでコツコツ作ったんだって!

僕がみたこの建物は、住居空間だったのか、売店(理髪店もあったらしい)だったのか、学校だったのかはわからないけど、間違いなく、この床を踏み、窓から外を見ていた先輩日本人がここにいたんだ。。 思わず床を手で触った。少し、ひんやりした。

鉄の有刺鉄線の外には出られない日々の中で人間の尊厳をもちつづけて頑張ったと思うと涙が出る。。。

忘れてはならないこと、場所、時間だけど、ここに収容された人たちは、二度と戻りたくないし、振り返りたくもなかったことだろう。この建物を保全しようという気持にはなかなかなれなかったと思う。社会の記憶は後世の人達こそが継いでいくべきことなのだろう。

最近、日系四世の若者達がしっかり向き合って伝えていこうという動きがあることを伝え聞いた。



残る建物の中から窓越しに見た景色。当時はあんなにヤシの木は大きくなかったはずだ。

遠くに見える砂漠の山。



ほとんどの建物は崩れて形もない。こんな感じで柱の一部だけが残っていたりする。



「更地」の端っこまで行くと、水路があった。砂漠の中を流れるコロラドリバーから、ここまで、収容所の人達が労働に従事して掘って引いたらしい。透明な水がゆっくりゆっくり今も流れている。砂漠に水が来たおかげで「荒野」で農業ができるようになったといわれる。かつて砂漠エリアのコロラドで綿花産業がさかんだったのはこうした水路が人的に建設されたことも大きいのだろう。



バスケットボールゴール。
すでにネットはなくリングだけ。



ゴールの向こうはバラック建物がいくつかあった。はるか向こうに自分たちで作った水路が今でも流れてそこが境界。砂漠の中に木が大きく育っている。



西日を受ける元バスケットボールコート。有刺鉄線から出ない限りは、スポーツも教育も「認められていた」。もうコートはぼろぼろ。

当時全米に10カ所あった収容所は、日本人たちを隔離するため、人っ気のほとんどないところに作っているんだ。このキャンプもだから砂漠の中。でも、このPostonはまた別の重い歴史と重なる。私たちと祖先が共通とされる先住民アメリカインディアンが居住を限定的にアメリカ国から認められたエリアなのだ。そこに敵国民の収容所を建ててしまったのだ。

ここの日本人たちは本当に頑張ったと思う。移住後苦労して築き上げたものを各々が失い、不安と絶望の毎日の中で、でも、お互いを少しでも励ましあい、農作業や土木工事などでわずかな収入をもらいながら、身の回りのもので大工をしたり、裁縫やクラフトをしたり、詩を読み歌をうたい、相撲やバレーなど球技などスポーツもし、映画上映もして、人間的生活を精一杯保つ努力をしていた。
大自然を主として撮影したアメリカを代表する大写真家のAnsell Adamsは彼としては異例の写真集「MANZANAR」(収容所の一つ)で悲喜こもごもの人々の表情をとらえて国家の誤りを表現しているし、また強烈なのは、収容された日系のビル・マンボといわれた人が日々をカラーフィルムで美しく残している「ハートマウンテン日系人強制収容所」(紀伊国屋書店)。また新正卓は写真集「約束の大地」( みすず書房)で1990年代時点で残る建物や生存中の収容されていた人たちを撮影している。





教会のすぐそばにあった大きな桑の木。そう、もともと桑の実(マルベリー)は美味しいし、葉っぱは蚕を飼って絹になってきた。今でも日本のあちこちに育ってなじんだ景色になっている。この辺で桑を植える人たちはいない。きっと日本人が植えたのだと思う。



「更地」のあちこちに育つヤシの木



並木として植えられただろうヤシの木たち。はるか向こうにも並んでいる。

大きく育っているもの。。
Poston, Arizona; by T.T.Tanaka

戦後74年の間に、日々の生活の跡が錆びたり崩れたり、でも、逆に木々は大きく育っている。それがどーんと心に響いてくる。

ここにいた人が読んだ歌で、「いつ、嵐はおわるのか? フェンスに囲まれてまた夏がくる。。」 「また何とも言えない時間が流れてくる。私はここにいることを決めたのだから、何か種をまいて育てることにする。。。」など。。

僕はこの砂漠で初めて出会った桑の木が大きくてびっくりしたけど、当時の種をまいて育てようという人の気持ちのことを思うと心がゆすぶられた。。 この桑には日本の気持ち、日本のふるさとを離れた一世たちの気持ちも入っている気がするんだ。。

この乾いた砂漠でこの大きなヤシの木が育っていることが奇跡的なことに思える。水路をここまで引いてきたからこそ育っている。元気なヤシの木を日々当たり前に見て生活していたカリフォルニアからの人たち。かつての日々の普通の幸せな空間の余韻がここに漂っている。 樹齢74年以上になるヤシの木の巨木。一本一本切ない。でも希望が育つ大きな灯にも見える。もう当時の誰も帰ってこないし、日々面倒を見る人もいないけど、ヤシの木たちはこれからも元気に生き続けてほしいと思うのだ。頑張って~~!

キャンプ場の中には何本か碁盤の目状にストリートがあったのだけど、ヤシの木の並木は当時のストリートの存在を語っている。夕暮れ時にこちらに並木、はるか向こうにも並木。そのシルエット列がこっちでもあっちでもくっきり美しい。





フランク・ロイド・ライトのアリゾナのスタジオ, Taliesin Westでお土産にかった、ピンバッジとオーナメント。

イサム・ノグチ と フランク・ロイド・ライト と アメリカインディアン
Poston, Arizona; by T.T.Tanaka(改行)

イサム・ノグチという彫刻家がいた。1907年、アメリカ人母親と日本人父親の間に生まれた。広島の原爆記念碑のデザインで丹下健三とともに活動したり、平和公園平和大橋、万博公園の噴水-月の世界、アメリカIBM本部の庭園、横浜こどもの国遊園地の設計など活躍し、アメリカ国民芸術勲章、日本の勲三等瑞宝章を受けている。女優の山口淑子(李香蘭)と結婚していた時期がある。彼は1943年36歳のときに日本人強制収容所、なんと、このPostonに収容されていたんだ! しかし、混血であったためにスパイではないかとの噂がたった。想像できないほどのつらい立場だったろう。

そのときに、手を差し伸べ、嘆願書を書き出所のために動いてくれたのが、芸術家仲間の、フランク・ロイド・ライトだったんだって。ライトは日本が好きで、日本でも帝国ホテルや自由学園や芦屋の山邑邸などの建物設計をした建築家。そう。ライトは、空間に威圧的に鉄筋とコンクリートで目立つような人為的なデザインではなくて、自然と共生するテイストを追求した。大都市シカゴベースの生活だった彼は、このソノラン砂漠の中のScottsdaleにデザインスタジオ(Taliesin West)を作った(見学できるよ~!)。若手建築家たちと共同生活しワークショップを展開して、この自然と、そして、自然と共生しているインディアンのアートをrespectしてオーガニックな新しい建築次元を目指したのだった。

そのアリゾナを愛しアリゾナと関係が深かった彼が、そのアリゾナに収容されたイサム・ノグチを救ったのは何というめぐりあわせだろう。。

僕は、このPostonとencounterすることになった同日の朝、たまたまこのTaliesin Westを訪問していた。まさか、ライトとPostonと関係があったとは思ってもいなかった。そのスタジオを出るときに何気で買い求めたのが写真にあるアイテム。彼がスタジオを若い建築家たちと建てたとき、砂漠の中の石に刻まれて残っていたペトログリフがこのデザインの元。のちほどWhirling arrowと呼ばれているもの。 インディアンたちの間では無限、幸せの極限などを意味するんだって。はるか昔も、そして現代のグラフィックデザインになっても美しい。

人種や、国や、時代を超えた美しさ、自然との共生を心からピュアに愛したアーチストに一人の才能ある日系人だけでなく、多くの人々が救われたのだ。












アメリカインディアンのアートたち
Poston, Arizona; by T.T.Tanaka

昔のインディアンのアートを今でもいろいろアリゾナでは見ることができる。
あ、このインディアンはwhirlingを身に沢山まとっているし、となりの女性(多分)はふっくらおなかを手で触りながら目を細めている。子供を片手にかかえた人は動きがあって楽しいし、蔓でつくったワンちゃんや人のお人形もかわいい。
そうなの。コロンブスがアメリカ大陸発見する前から我々と共通の祖先たちはこんなに豊かな生活を送っていたんだ。ほっこりするね。









力強い鹿とか、コヨーテ?(ヒョウかな・・?)、あ、これ、お魚さん、ちょい、ぷーっとしてかわいい。こういう表現ができるってあったかい心だと思うんだ。









よくみるとグラフィックデザインも素晴らしい。幾何学的な要素が沢山入っている。どんな意味かな~とか見ていて飽きない。。 都会の中だけにいると、こんな発想は出てこないもの。 ここでは人もいろんな生きものもみんな平等にイキイキとしているね~。 ともすれば消えてしまうこの感覚。 わたしたちはこれからも忘れないように大切にしていきたいよね。様々な人を愛する力だと思うんだ。










そして美しいシルエット。。
Poston, Arizona; by T. T. Tanaka

もうそこに日没が近づいていた。
砂漠の山のシルエット。
赤く染まりゆく空。
砂漠には珍しいかつての建物と群れをなして飛んで行く鳥たち。
大きな大きなヤシの木のシルエット。
砂漠とつながる空、サンセット。宇宙。

一目ではっとする美しさ。
そして、深く深く動く心。
「何もない」はずの砂漠で、
先祖たちの、祖国の、そしてアメリカの様々な時の、アメリカの様々な人々の、
気持ちに自分の心の奥でつながった気がした。
悲しくも、でも次への希望を心に持ち続けて一歩一歩次にすすんでゆきたい。



 

二度心が動くとき

二度心が動く。こういう感覚だろうか。
僕は大湿地、大草原、大氷山、大氷河、大海原。。。など大好きなんだ。大砂漠も。
アリゾナがどうして好きなんですか? どこ行くんですか? と聞かれるんだけど、
いつも答えがちゃらんぽらんで申し訳ない。。
「うーんとね。ずーっと砂漠がいいの。。」
「えー。サボちゃんに沢山普通に出会えるのが楽しいの。。」
「だーれもいないところのじゃりじゃりの未舗装を何時間も走り回るのが好きなの。。」
「はるか向こうに見えている地平線がいいの。。。」
・・・
それで、大体の人達は「あ、そう、それか。なるほど。へー!!」という反応はほぼなくて、「???」 「??」 「?」 ってなっちゃうんだ。

今度の旅でも大好きなサボちゃんに出会えてもうそれだけでうれしくて仕方なかった。
でも、今回は、二度心が動くという景色に出会ってしまった。
まさかの強制収容所跡との遭遇。
僕は色々な自然の景色に見慣れてきているから、その自然に普通ない存在には目ざとい方なんだ。最初、本来そこにありえないヤシの木たちの存在にすごい引力を感じたのがきっかけとなった。不勉強だったのでホテルについてスマホで、また、帰国してから調べることになったのだけど、驚きの連続だった。
多くの日本人が第二次大戦のずっと前から移住して世界各国で頑張ってきた。僕が行くところで日本人の痕跡がないところはほぼないくらい。今こそグローバルの時代って騒ぐけど、現実にはあまりにも他の国を知らないし、国外での日本人の存在や歴史についても語られることが少ない。

めったにない美しさに出会えると瞬間、心がときめく。嬉しい。でも同時に他にはない厳しい環境や歴史がそこに存在していることが多い。それを乗り越えて輝いている美。それがわかるとまた心が動く。深く。。  アメリカの魅力ってそうなのかも。色々な誤りもあったしまた起こすかもしれないけど、それを乗り越えていく力と美。

あら、人も同じなのかも。美しさにハッとして、それからじかに接して表情にふれて、声を聴いてその人自身に今度はふかーく心がうごいてゆく。傷がない人はいないし、それを乗り越えて歩んでいる姿は素敵だな~。
僕も二度素敵って感じられる人間にならなきゃ~。かみごたえのある、あ、するめ、あ、ビーフジャーキーのような・・?

ちょと待て~。まず最初のハッとしてもらう美すらできてないじゃん。とほほ。。。

でもサボちゃーん。君に大感謝だよ~。君がいなければこなかったもん。あ、君も厳しい環境で傷だらけだけど大地でじっくりじっくり200年も宇宙とつながっていくんだもんね。二度素敵な存在だよ~。だからまた会いにくるからね~。

Photos, essay by T. T. Tanaka



イラスト by 瀧口希望

 

実は一つ補記しておきたいことがある。

1940年にリトアニアでユダヤ人にビザを発給した日本人外交官、杉原千畝のこと。
時々話題になる。すごいなあと思う。また、そういう日本人がいたことに安堵する。
その話を頭において、次のことを知ってびっくりした。

1943年にアメリカ国内で日本人強制収容を開始したときに、コロラド州知事のラルフ・ローレンス・カー(Ralph Laurence Carr)は一貫して公然と日系人の強制収容に反対し、州民に対して、
「現在、日本語を話す人達は、皆、大変つらい立場にある。(中略)我々はアメリカのシステム自体をつぶしていることになる。もし、戦争におけるコロラド州の役目が日系人10万人を受け入れることであるなら、コロラドは彼らの面倒を見る。」と呼びかけ、カー知事は各州で市民権を拒否されていた数千人に及ぶ日系人をコロラド州に受け入れた。彼の碑が残っている。

興味をもたれたら、検索してみてください~。
彼についての本も出版されています。

色々な国を旅をしていて、日本人の痕跡がないところはほぼないくらい。
そして、そこには日本人として忘れてはならないことや人々が。。。

 



Postonの「石灯籠」に何枚か貼られていたレリーフの一部。
砂漠の中の当時のバラックやウォータータワー、背後の山など彫られている。
これを含め数枚のレリーフがあり、当時の様子や、収容された人の読んだ歌や、アメリカ市民として敵国日本にアメリカ兵として活躍した日本人の名前や、アメリカが国として公式に後年謝罪したことや、ここにそれ以前から、そして今も住むアメリカインディアンの言葉などが刻まれている。

旅はENCOUNTERSアーカイブ↓

#16(アリゾナ篇)はこちら
#15(アリゾナ篇)はこちら
#14(アリゾナ篇)はこちら
#13(アリゾナ篇)はこちら
#12(アリゾナ篇)はこちら
アリゾナについてまとめたアリゾナノートはこちら

#11(カリブ篇)はこちら
#10(カリブ篇)はこちら
#9(カリブ篇)はこちら
#8(カリブ篇)はこちら
#7(カリブ篇)はこちら
カリブについてまとめたカリブノートはこちら

#6(フロリダ篇)はこちら
#5(フロリダ篇)はこちら
#4(フロリダ篇)はこちら
#3(フロリダ篇)はこちら
#2(フロリダ篇)はこちら
#1(フロリダ篇)はこちら
フロリダ州についてまとめたフロリダノートはこちら

Tag

Writer