SPOTABI By Luke Magazine #1
Hideo Hashimotoの旅
(Football Player)
Contributed by Daijiro Inaba
People / 2021.09.07
そう信じてやまない人材コンサルタント・DAIJIROが、スポーツに挑むさまざまな人々の旅路を綴る連載「SPOTABI」。プロの選手やスポーツチームだけでなく、スポーツに関わる多種多様な人々のリアルな一面にDAIJIRO独自の視点で奥深く切り込むこの企画、老若男女問わず、あらゆる形でスポーツに関わる人、そして関わりたい人に読んで欲しい熱き連載。
#1
スポーツに関わる人のリアルをお届けする僕の連載、『SPOTABI By Luke Magazine』、ついに始まります。記念すべき第一弾の今回は、プロサッカー選手の橋本英郎さんにお話を伺いました!
元サッカー日本代表であり、現在FC今治でプレーされている橋本選手が、サッカー選手としてだけでなく、「橋本英郎」としてこれまで積みあげてきたキャリアや今後実現していきたいことについてお伺いすることができました。サッカー選手として、そして経営者として、常に挑戦し続ける橋本さんの旅路を綴ります!
(※すべて本人からお借りした写真を掲載)
1.二つの武器
Daijiro(以下D):橋本さん、本日は宜しくお願いします。現役のプロサッカー選手でありながら、経営者でもあり、現在はオンラインサロンなど活動の場を広く持たれている橋本さんですが、サッカーを本格的に始めたのはいつごろからですか?
橋本(以下、橋):兄が入っていた釜本FCというチームに入団して、そこがガンバジュニアユース(J1ガンバ大阪のジュニアユースチーム)に移管する形になって、自然とガンバジュニアユースに入団することになったんよ。それでそのままユースでやってたんよね。
D:なるほど。橋本さんは天王寺高校(大阪の進学校)出身ということで、文武両道の道を歩まれていたイメージがあるのですが、そのような道を歩んだきっかけは何かあったんですか?
橋:6つ上の兄と、3つ上の姉が二人とも天王寺高校やったんよね。それで入りたいなってなったんよ。結果、上二人がいてくれたおかげで、「橋本の弟か!」みたいな感じで関係作りも比較的苦労しなかったよ。
D:兄弟とは別の道を歩みたい、とかはなかったんですか?
橋:それは特になかったね。むしろ兄と姉が道を示してくれてて、安心だなって思ってた。学校終わったらほぼ毎日ガンバの練習に通っていたから、友達と一緒になにかした思い出ってのはあんまり多くないけどね。でも2学期制だったから、中間テスト期末テストが他の3学期制の子たちと時期がずれる関係で、天王寺高校のサッカー部の活動にも参加させてもらってたよ。
D:充実した高校生活だったんですね。天王寺高校は進学校ですし、そこからのサッカー日本代表選手ってすごいことですね。
橋:岡田武史さん(元サッカー日本代表監督、現FC今治代表取締役兼オーナー)が天王寺高校サッカー部出身の大先輩だよ。
D:そうでしたか! 高校時代の大先輩と今同じチームとは、すごいご縁ですね! 高校を卒業してそのままサッカー一本の道に?
橋:トップチームには入ったけど、大学進学もした。当時はサッカー一本でやっていくって感じはなくてね。家族とも話し合って、大学に行くことを決めたんよね。サッカー推薦でいける大学もあったんだけど、そこからだとガンバの練習場に通えないから、一芸入試で大阪市立大にいったんよ。いずれにしろ、家族の影響は大きかったね。
しまなみ街道の伯方島にて
D:大学に進まれたんですね。早くから選手一本に絞って、サッカー界で第一線の道を歩まれてたのかと思っていました。
橋:いや、そんなことないよ、ほんまに。同期に稲本潤一(サッカー選手、元日本代表、現SC相模原所属)がいたからね、彼は若いころからほんとにすごかったからね。すごく高い壁に感じていたよ。
D:サッカーと学業の両立を続けていくにあたって、どんな学生生活を送っていたのですか?
橋:学校終わったらすぐにガンバの練習に向かう毎日だったよ。大学では教授から「サッカー辞めて就職したら?」という話もあったしね。まだ代表とかそういう話はなかったし、リスクのこと考えたら周りがそう言うのもよく理解できた。家族からも、就職のことは言われてた。選択肢について自分で考えるってよりは周りの声に耳を傾けてたからね、当時は。常に何か保険というか、二つの武器を持つという感じで過ごしてた。
金閣寺にて
D:そこからどうやって選手になっていったのですか?
橋:23歳の時に西野朗さん(元サッカー日本代表監督、元タイ代表監督)がガンバに就任してから潮目が変わったんだよね。試合で使ってもらえるようになって、自信も持てるようになってきて。それで、24歳の時に初めて、覚悟を決めてサッカー一本で動き出したんよ。後にも先にも、この時だけかな、他の選択肢を捨てたのは。
2.プロスポーツの厳しさ
D:サッカー一本で動き始めて、そこからはどのような生活でしたか?
橋:J1でやっていけるようになって、サッカーをとことんやっていて、27歳で初めて日本代表に呼ばれたんだよね。今もよく覚えてるけれど、その時いろんなことを感じたんだ。
D:例えばどんなことを?
橋:「もっと早く退路を断って、サッカーだけに絞ってやっていたらもっと早くから日本代表に呼んでもらえたんじゃないか」とも思ったし、「若いうちからこのリズムだったら精神的にしんどかったかもな」っても思ったりね。当時僕の周りではとにかく自分にも他人にも厳しい人ばかりだったからね。色々考えたのは憶えてる。けど、後悔は全然してないよ。
J3リーグの最年長記録更新ユニフォーム
D:想像以上に厳しい世界なんでしょうね。
橋:J1の選手たちはバチバチにやりあうから、今までできていたことができなくなっちゃう選手がけっこういるんだよね。精神的に強くないと、J1ではやっていけないと思う。プロに大事なものはメンタルとかマインドの強さだってほんとに思うよ。実力勝負だから、どれだけ名門校出てようと、学生時代にどれだけの実績があろうと関係ないんよね。
D:メンタルやマインドの強さを持てた橋さんはそこでやれたんですね。その強さを下支えするものは何があるんでしょうか?
橋:うーん…。「理不尽」への免疫かな。理不尽なことがあったときにいちいち立ち止まらない。理不尽があってもまず、動く。理不尽に耐えられなかったら脱落の世界やと思って今までやってたよ。
D:そうなると、学生時代にどれだけそのような機会を持てるかはすごく大事ですね。
橋:そうだね。最近では3年間ずっと同じチームにいる選択をする人ばかりではないみたいだし、いろんな選択肢があるみたいだけど、学生時代にどんな環境に身を置くかはすごく大事だと思うから、とにかくそこには拘るべきだね。
3.キャリアについて
D:日本代表も経験されて、複数のチームを渡りながら今も現役でプレーされている橋さんですが、今は会社の経営もされていますよね。きっかけって何だったんですか?
橋:元々学校の先生になりたいって夢があってね。せっかくサッカーしていることもあるから、サッカーの指導者になりたいって想いはずっと持ってる。そんな中で、縁あって33歳の時にスクール事業を立ち上げることになったんよ。
コーチ陣とゲストコーチ
D:現役を続けるだけでも大変な世界で、会社の経営もされてるってものすごいことに感じます。何か大事にしていることとか、信念みたいなものはありますか?
橋:「努力は報われる」。あと、「好きなことをやるために努力をする」ってことだね。大変なことも多いけど、好きなことだから努力できてるんだと思う。最近も大学で指導する機会をもらったり、学校の先生とプロスポーツ選手の違いを可視化する実験に参画させてもらったりと、有難い機会をたくさんいただいてるよ。
D:橋さんが教育の仕事を通じて実現したい事ってどんなことなんですが?
橋:自分のスクールに来た子に、成長できるきっかけを与えられるようになりたい。サッカーが全然上手じゃなかった子が、うちのスクールをきっかけにメキメキ成長してJリーグに挑めたりしたら最高だね。
D:素晴らしいですね。現役もやりながら、教育の夢も実現していくこと、とても楽しみです。
橋:頑張ります!
ジュニアユースの練習に参加
職場の仲間と
D:最後に、未来の自分にメッセージをお願いします!
橋:「娘と息子はちゃんと育っているか!」って言いたいね。50の時に子どもが20歳になるので。その時の基準で「ちゃんと」できていたらいい。形はどうであれ、きちんと育ってくれていたら幸せだね。
今回のインタビューを通して、橋本さんならではのスポーツとの向き合い方、夢の追いかけ方を学ばせてもらいました。トップアスリートの時間の使い方、キャリアの積み方を考える中で、橋本さんが今後のスポーツ界のロールモデルの一つになると強く実感してすることができました。ありがとうございました!!
橋本さんの旅と共に、SPOTABIは続く。
橋本英郎 (1979年5月21日生)
大阪市生まれ、大阪育ち 今治市在住
趣味は、サッカー。
仕事はサッカー選手。会社経営者。複業を極めるべく様々な分野に挑戦中。
オンラインサロン『円陣』を運営、主宰。スポーツ(サッカー)×ビジネスのイノベーションを起こすべくチャレンジ中。
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Daijiro Inaba
1986年川崎生まれ、東京育ち。葉山在住。趣味はSUP、ウクレレ、サウナ、フットサル、ワイン、BBQ、逆光アート、愛犬と過ごすこと。 オンラインサロン「大二郎酒場」主宰、教育系DAO「DSK」主催。