『渡辺工房』の腕時計

Just One Thing #38

『渡辺工房』の腕時計

287(フローリスト)

Contributed by ivy -Yohei Aikawa-

People / 2023.08.24

街は、スタイルが行き交う場所だ。仕事、住む場所、友だち、パートナー、その人が大切にしていることが集約された「佇まい」それこそがその人のスタイルだと思う。
 絶えず変わりゆく人生の中で、当然、スタイルだって変わる。そんな中でも、一番愛用しているものにこそ、その人のスタイルが出るんじゃないかって。今、気になるあの人に、聞いてみた。
「一番長く、愛用しているものを見せてくれないか」


#38


「あ、そうそう。私、オーストラリアに行くことにしたんだよね」

しれっと言う。1年間、オーストラリアへのワーキングホリデー。店舗を持たない花屋『is enough』の店主、287(読み方は非公開)とは、元々プライベートで親交があったけれど、少し意外な選択に感じた。筆者の浅い知見と狭い視野では、どうにも花屋の仕事とオーストラリアへ渡ることが結びつかなかった。



「ずっと行きたかったの。お店出しちゃったら、行けないじゃない? 行くなら今かな、って。行先は、花の産地。日本よりも物価が高いから給料も高いし。特定の国に行きたい、というよりも、やりたいことができる仕事がオーストラリアにあった、って感じかな」

なるほど。彼女の中では何のために、何をやりたいか、地図が描けているみたいだ。いつの間にかそういう選択をしているし、それも狙いすましたような嫌みがなくて、本人にとってはそれが必然のことであるかのように思えてくる。

287はこれまでも、普段からそういう人だった。たとえば、素敵な服を着ているなと思っても、本人はそれを別段意識している風がなくて、そのことについて話すことすらない。本人にとってはごく自然に、そうしているだけのことでしかない。

そんな調子だから、287をこの連載に出てくれないかと連絡したとき、少し困ったような顔をされた。

「えぇ、私!?(笑)」

それでもお願いしたかったのは、あまりモノに執着がなさそうにも思えるタイプの彼女が気が付いたら長く使っていた品が気になったからだ。本人としてはそれほど意識することなく、気づいたら長く使っていたものなら、きっとそれなりの理由があって、その理由こそが彼女の原動力や動機に繋がってくるんじゃないか、って。

当日、彼女は腕時計を見せてくれた。



「大学生のとき、“フル単”のご褒美として自分に買ってあげたやつなんだよね」

『渡辺工房』の腕時計は、どんな服にもなじみそうなクラシカルな作りで合わせやすそうだった。年齢や場面も選ばずにつけられて、修理してでも使い続ける、そういうものだと思う。学生の頃からの愛用品。それは、287が花屋になる前、さらにいえば、花屋になると志すより前から使っているということになる。

287は元々、看護師として働きながら花屋を手伝っていた。大学も看護系の学部を卒業している。

「卒業したら、一生看護師として働いていくことが前提な訳。だけど、それはつまんないなぁと思ちゃって(笑)」

色々な仕事を経験したい、という思いからアルバイトをいくつも掛け持ちした287。その中の一つが花屋だった。当時彼女が花屋を選んだのはなぜだったのか。

「やっぱり花が好きだったから。花は、気づいたらずっと好きだったの。もう、いつから好き、とかきっかけとかわからないくらい」

287の出身は岐阜県。地元では、花が当たり前にある環境だった。

「田舎だから、畑を持ってて、そこでおばあちゃんが花を育ててた。畑の作物は基本、野菜なんだけど、その中に趣味で植えてあって、近所の人にあげる、みたいな感じ。数え切れないくらい色んな花が咲いてて『常にそこにある』、って感じ。そのときは、おばあちゃんに『咲いたから見て来な』って言われても別にそれほど興味が持てなくて。だから、好きとか嫌いというよりも、ずっと身近にあったって感じかな」

ほとんど花の存在を意識したことがなかったが、生まれ故郷を離れ、名古屋で学生生活をするうち、徐々にその存在が彼女にとって大きなものであることに気づいていった。



花屋の仕事は過酷だ。それでも、不思議と苦にならずに続けられた。

「アルバイトしてみて、イメージと違うことだらけだったね。アルバイトの時点で、思っていたよりも大変で辞めちゃう子が多いと思う。それに、花屋のアルバイトって花に触れなくて。最初は本当に雑用だけだったんだけど、たまに触れたり、好きなものに囲まれていたり、不思議と私は楽しかったかな」

287は、直感的に行動を起こし、あとからそのことが好きになったり、大切なことに気づいたりすることで、思い入れが強くなっていくことが多いのかもしれない。それでいうと、この日持参した時計も例外ではなくて。なんとなく店で見て気に入って、つけているうちに使い込んでいた。それはちょうど、彼女にとっての花にも似ている。

初動はいたってライト。ただ、そうする理由は彼女の中にごく自然な選択としてあって、それを気負いなく実行している。だから、特にそのことを意識しているようにも見えない。

とはいえ、花が好きだと気づいてから実際に店を出すというのは、それなりのハードルがあるはずだ。それに、自らがオーナーになる以外にも花と仕事でかかわる方法はあるかもしれない。

「始めは、『働きたいな』って思えるお店で、長く働けたらいいなって思ってたんだけど。ただ、私が働きたいって思うような花屋は、どこもいつか独立することが前提なんだって気づいたのね。今後どうしたいの? と花とのかかわり方についてすごく聞かれて。逆に私がお店の人だとしたら、そういう気持ちの人しか雇わないな、って」

花の見せ方、内装、そして店主の人柄やスタンス。そういった店の色が出ている花屋に惹かれていった。特に中目黒のとある花屋には強く影響を受けたという。イレギュラーな形で手伝いながら、フラワーアレジメントや花屋としての仕事の基礎をそこで学んだ。

「働いてみたいって思える花屋って少なくて。SNSを見るだけじゃ、本当のところどういうことを考えているのかって見えてこないし。行ってみて、お店の人と会ってみて、ここは良いなって思える場所が独立志向のお店が多かったのかもしれない」

逆に287の中で「これは違うな」と思うとき、働いてみたいと思えない環境はどんなときなのか。

「自分の上に立つ人を尊敬できないなと思ってしまった時、離れるかな。そこにいる限り、いつかは自分より上に立つ人に自分がなるわけじゃない。そう思った時に、なりたいと思えない場所には身を置きたくないからさ」

彼女の中で見えていなかったやりたかったことを実現している人と会ううちに、その答えが自らの花屋を始めることへと繋がっていった。

「私は、とりあえず退路を断つために、やると決めたことは周囲に言うタイプ。上京することも、花屋になることも、言ってた。何も決まってない状態で(笑)」

結果として、イベントでのポップアップや展示での花の内装、フラワーアレンジメントなど声がかかるようになった。今回、オーストラリアへのワーキングホリデーを公言していたのも、花屋としての活動を周囲へ言っていたのも同じことだったのか。

行動を起こすと決めたら、やってみる。その為の基準は彼女の中でしっかりとあるから、躊躇はない。行動を起こし、言葉にも出しているから、周囲の人も協力する。こうやって少しずつ形になってきたのが彼女の実店舗を持たない花屋『is enough』だ。



287本人は意識していないことかもしれないけれど、それはモノ選びに対しても近いスタンスがある。たとえば、287に花を頼みたい人であったり、『is enough』で花を買おうと思う人は、彼女本人の花に対するスタンスや美意識、彼女自身が好きな世界観に惹かれているはずだ。それは、ちょうど287が「働きたいと思える花屋」と出会えたことと同じように。

彼女自身が素敵だと思うもの、かつずっと身に着けているものが対面する人から目に入ることは、そのために非常に重要な要素であることは間違いない。花屋になることを周囲に公言したことや、花屋になるまでのフェーズで必要な行動を躊躇なく起こしていくことの中に、このことも含んでいい。

オーストラリアへは1年間行ってくるという。自らのお店を持つための準備段階、お金を貯めて経験を積むための時期。帰ってきたとき、彼女が出す店が果たしてどんな場所になっているのか、それは彼女の中ではもう決まっているのかもしれない。



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287(フローリスト)
岐阜県出身。『is enough』店主。現在は東京を拠点にポップアップ出店を中心に活動している。都内に限らず、名古屋や関西方面のイベントにも出店している。「恥ずかしいからさ(笑)」との希望により、名前の読み方、顔は非公開。会ってのお楽しみ。

Instagram: @_is_enough_






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