Carmen

Interview File #04

Carmen

Contributed by Haruki Takakura

Trip / 2023.09.22

留学支援、就職支援があるなら、ギャップイヤー支援があってもいいじゃないか。
そんな想いから、様々な*ギャップイヤーの形を伝えるインタビューファイル。

Interview File #04 Carmen



Self introduction



カルメン:今(2022年2月時点)はデンマークの大学で「環境と開発(専攻:フードサイエンステクノロジー)」を学んでいるよ。みんなからは、カルメンって呼ばれることが多いかな。

ルーカス(#01)の紹介でインタビューを受けてくれたんだよね、ありがとう。ところで、すごく日本語の発音がいいね。

カルメン:今は少し下手になったんだけど、日本にいた頃はとても勉強していたからね。


ー どおりで! じゃあ、早速だけど、日本にいた頃のことを聞かせて欲しいな。まずは、日本にステイしようと思ったきっかけを教えてくれる?


人生で最も悲しい日だった卒業式



カルメン:日本に行くことを決めたきっかけは、大学の卒業式だったの。いま思えば、とてもバカらしくも聞こえるんだけど、私にとって卒業式の日は「自分への失望の日」だったんだよね。

それは友達に会えないから……とか、卒業することへの悲しみではなく、自分への絶望からくる悲しみ。卒業式を迎えた自分には、社会で通用する実践的なスキルが全くないということに気付いて(笑)。

特に不思議なことではないと思うんだけどね。ほとんどの大学生がそうだろうし。

ただ、大学での忙しい勉強を終えて、それを祝うはずだった卒業式の日に「あれ、社会で生きていくためのスキルって、何か自分にあったっけ?」って、オオマジメに問いかけている自分がいたんだ(笑)。同時に、大学で授業を受けているだけでは、実践的なスキルが身につくことはないと気づいた瞬間でもあったね。

だから、大学を卒業したあとに、1年間のギャップイヤーを取ったんだよね。そして、その間に日本に行くことを決めたんだけど。

とにかく、私にとって大学の卒業式は「人生で最も悲しみを感じた日」だった。

その状態に焦った私は、当時、日本に行くことを考えていたの。その理由は大きく二つあって、一つはアニメや発酵といった日本の文化に関心があったから。もう一つは、これが一番大きいと思うんだけど、これまで家族や兄弟と過ごしてきた母国の環境(イタリア)から飛び出して、独立した生活を経験したかったんだ。


ー イタリアだと家族から離れて生活するのは一般的ではないの?

カルメン:イタリアで20歳というと、まだまだ子どもとして扱われる年齢だから、海外に出ることもなかなか許してもらえない。私がいたイタリア南部は、とりわけ家族を大切にする文化だしね。
そんな中、ルーマニアで行われた大学のプログラムで2週間ほど親元を離れた期間があって。そこで経験した色々な国の人たちと会う機会のなかで、自立心を持つことや英語を話すことの重要性を感じたんだ。

イタリアでの生活環境や卒業式のこともあって、自立心と実践的なスキルを身に付けたいと思うようになっていったんだ。きっと、慣れない日本でサバイブしながら、いろいろな仕事や環境を経験するうちに、自立心や将来のプランへのヒントが見つかると思ったんだよね。


阿佐ヶ谷から通ったメイドバー



ーギャップイヤー中にはどんなところにいたの?

カルメン:ケニア・台湾・ドイツ・フランスといろいろな国から来たルームメイトたちと阿佐ヶ谷の小さなシェアハウスに一緒に住んでいたんだ。ここは、ルーマニアで経験した授業と同じで、当然の如く飛び交う英語に本当に苦労したよ。。。

普段はこの阿佐ヶ谷のシェアハウスをベースに、日本の文化や一般的な慣習を学ぶプライベートスクールに通いながら、仕事をしていたんだ。


ー阿佐ヶ谷のシェアハウスってまた、すごいところを見つけたんだね。ちなみに仕事はどんなことをしていたの?

カルメン:仕事はね、秋葉原のメイドバーと埼玉県の所沢にあるオーガニックファームの掛け持ちだったんだ(笑)。意外にもイタリアと日本の間にはワーキングホリデービザの協定が結ばれていなかったから、仕事探しには苦労した。結局、スチューデントビザを取得して、そのビザで許される僅かな時間の中で働くことにしたんだけどね。

このメイドバーは、私の日本語がとても上達したきっかけになった場所。メイドバーは、常連さんに支えられている小さなお店だったの。だからこそ、常連さんたちとは家族のような近い距離感を持てる場所だったんだ。彼らが自ら進んで日本語を教えてくれたのもあったし、日本語を話し続けないといけない環境のおかげもあって、私の日本語は少しずつ流暢になっていったんだ。

そこでは、本当にラッキーなことがあったんだ。よくきてくれるお客さんの中に、マイクロバイオロジスト(微生物学者)の方がいたんだ。
さっき話した通り、私が日本に来たキッカケの1つは「発酵」に関心があったからだったから、本当に幸運だったよ。たくさん発酵について聞くことができたんだ。




家族にとってのブラックシープ



ー自分がしたいことに挑戦した結果なのかな;)
少しイタリアの文化についても聞きたいんだけど、ギャップイヤーという選択肢は一般的なの?


カルメン:イタリアでは、ギャップイヤーは一般的な選択肢ではないと思う。もちろん地域によって違いはあるけれど、イタリアには家族や地縁を大切にする文化があるから、私の家族もそうなんだけど国外に出ることにすごく反感をもつ印象があるね。まあ私は、外の世界を知らないままでいるのが嫌で、家族の反対を押し切って日本に来たんだけどね(笑)。家族にとって、私はブラックシープ(異質な存在)のような存在だったんだと思う。

だから、仕事を終えて夜中に帰ってきては家族と毎日電話するような日常で(笑)。
向こうは朝8時なんだけどね。「お母さん、こっちのアパートで暮らす人はみんな寝ているよ! って(笑)」


ーものすごく愛が深い印象はあるんだけど、家族愛もやっぱり深いんだね(笑)。
こうして反対を押し切ってのギャップイヤーだった訳だけど、この選択に対して今思うことはある?


カルメン:「愛」と「どこにいてもピザを探している」というイタリア人の特徴は正しいんだよ(笑)。

そうね、決して一般的とはいえないギャップイヤーを選択したことで得られたモノは大きかったと思う。
まず1つ目は、ストレスを感じにくくなったこと。阿佐ヶ谷のバーでは、日本のあらゆる地域から来る人たちと出会い、日本語レッスンの教室では、世界中から集まる別の人たちと出会う。やっぱり、母国とは遠く離れた日本という異国で「仕事」や「勉強」を通じて、色々な属性を持つ人たちと様々な場所で触れあうことって正直ストレスフル。でもその環境を楽しみ始めると、同時に自分自身が強くなっていくのも感じられたんだ。

それから2つ目は、失敗は大切だと学べたこと。日本語学校では、母国語ではない英語という共通言語を使って、コミュニケーションを取るパターンが多かった。当然、みんなの英語には、発音の癖や理解しづらい文章もあるんだけど、みんな気にせずにとにかく話すの(笑)。例えば、私の場合は「h」の発音に癖があるようで、いつもポーランド人の彼氏にからかわれたりもするの(笑)。

でも、英語が母国語ではないことをお互いに知っていて、とにかく「コミュニケーションを取ること」が目的の場所にいる以上、英語を流暢に話せないことに恐れる必要はないんだよね。あなたには他の母国語があるはずで、英語が母国語ではない。母国語ですらミスするのに、どうして母国語でない英語で、失敗を恐れる必要があるんだろうって。

もちろん、私もそのうちの1人だったんだけど(笑)。
日本にいた頃、英語を話すことを恐れる日本人にたくさん会ってきたんだけど、ネイティブだってミスするし、本当に完璧でないことを恐れる必要はないんだよ! って今なら思える。
本当にシャイで、イタリアにいながら英語を勉強し続けたにも関わらず、自分の英語に全く自信を持てなかったから、その気持ちは痛いほどわかるんだ。
「みんなどうか私の英語を理解して!」って感じで(笑)。

でも、そんな私が言うからこそこれは本当。そこに恐れは一切いらないの。

話を一旦戻すね(笑)。

こうした失敗を重ねるうちに、何かをくぐり抜けた経験やそれにどう対応したかっていう経験値が、知らず知らずのうちに積み重なっていってね。それが、今の自立心や学びに繋がっているんだと思う。これは、あの時の自分がギャップイヤーを選択していなかったら得れないモノだったかもしれないね!




最後に

今回、インタビュー中に最も伝わってきた彼女のパワーの源は、間違いなく『挑戦心』だった。果たして、ルーマニアでの他国籍学生との交流がなければ、彼女の卒業式はそれほど悲しい日だったのだろうか。学校のプログラムとはいえ、普段とは違う環境に自分を置いたからこそ、卒業式の日に抱いた感情の景色が異なって見えたのではないだろうか。

1つのきっかけを作り出すこと、そのきっかけをバネにすることの大切さを彼女から学んだ気がする。成長は必ずしも人生の目標とはならない。だが、「自分の殻を破りたい!!」と思っている人にとって、ギャップイヤーは手助けとなるのかもしれない。カルメンのインタビューを終えて、かつての自分がそんな期待をギャップイヤーに込めていたことを思い出した。


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