HIKER TRASH

ーCDTアメリカ徒歩縦断記ー #3

Contributed by Ryosuke Kawato

Trip / 2018.05.22



「おい、スケッチ! あそこを見ろよ! マジかよ!」

シュウェップス(トレイルネームで炭酸飲料水の名前)は叫びながら、僕の肩をバンバンと強く叩いた。昼食のトルティーヤに齧りつこうとしていたのを邪魔されたので、ムッとして非難の視線を送ったが、彼は遠くを凝視したままで気がつかないようだった。
一体何事なのだ? 視線の先を追うと、僕たちが座っている場所から離れた地点で、細い一筋の煙が立ち上っていた。




「なあ、あれっていつから燃えてるんだ?」僕は尋ねる。
「1時間前までは無かったから、ついさっきだろう」
「まあ、小さいし、すぐ消えるよな」
「だよな」
そう言ってシュウェップスは、長く伸びた赤髪を指にクルクルと巻き、その匂いを嗅いだ。



僕は再びトルティーヤを掴み、齧りつく。カナダの国境からコンチネンタル・ディバイド・トレイルを歩き始めてから、約1ヶ月が過ぎていた。当初は色々な食事を試してたが、トレイル上で水源が少なくなってきた為、満足な調理ができない事と、スタミナを維持するために高タンパクかつ安価な食材を選んだ結果、アメリカのどこでも手に入るトルティーヤの生地に、チーズとツナを巻いて食べるようになっていた。
隣のシュエップスを見ると、彼もほぼ同じものを食べている。ハイカーが考えることは、同じなのだろう。



「多分、小型機の墜落じゃないかな。ほら、だって煙が黒いだろ」
シュウェップスは再び煙が気になり始めたようだ。確かに煙は薄く灰色がかっている。
「なあ、シュウェップス」
僕には先ほどから気掛かりな事があった。
「あの煙、さっきよりかなり大きくなってないか?」
「俺も同じことを言おうと思っていたよ」



僕らは、急いで残りのトルティーヤを口に押し込み、地図を広げる。
地図を見る限り、火事が起こっているのは、僕らの歩いて行く方向とは逆のようだ。引き返す必要はなさそうなので安心する。あとはこのままの調子で歩いていて大丈夫なのかだ。

「携帯の電波は入ってるか? AT&Tだから全然ダメだ」

僕の契約しているAT&Tはリーズナブルなのだが山岳での電波が弱かった。それに比べてシュウェップスのverizonはかなり広範囲で電波がある。

「こっちもダメだ。もう少し標高を上げたら使えるかもしれない」

どうやら今は自分達で判断するしかないようだ。僕らは無言で考える。いや、正確には考えるフリをしただけだった。山火事時の対処法など、知っているはずがない。



「よし、取り敢えず走るか」

シュウェップスは立ち上がり、バックパックを担ぐ。

「そうだな、走っておくか。死んでから、後悔したくないしな」

僕も立ち上がり、バックパックを担いで前を見ると、彼はすでに走り始めていた。
当然のことながら、重量のあるバックパックを担いで、走り続けることは出来なかった。それでも僕らは、ほとんど休憩をせずに歩き続ける。足早で歩き去るには勿体無いほどの綺麗な景色だったが、火事の恐怖心の方が大きかった。
振り返ると煙は更に大きく成長し、黒い柱を空に立てている。



薄暗くなるまで歩き続けると、僕らは丘の上の見晴らしの良い広場に出る。火事の方角を見ると、夕日に照らされてオレンジ色になった煙の絨毯が空を覆っている。

「なあ、スケッチ。ここから次の町まで、どのくらいか分かるか?」
「確か50キロ弱だったと思うけど」
「このまま朝まで歩いて距離を稼がないか? 朝までに30キロくらい歩けば、明日の午前中には町に退避できる」

シュウェップスが言っていることは、もっともなのだが、僕はもうこれ以上歩くのが嫌だった。体力はとっくに限界に達しているし、煙が上がっている地点から、僕らがいる場所まで距離がある。そして、そのうちに鎮火するような気がしていたからだ。

「できることなら、夜間は体を休めておきたい」
「でも、スケッチ。ホース・ファイヤって知ってるか?」
シュウェップスは髪の毛をいじりながら言った。
「知らない。何のこと?」
「山火事が勢い良く広がることを言うんだ。実際、馬と同じ速さなのかは知らないけど、一瞬で山全体が燃えることがあるんだ」
そのような事をニュースで見聞きしたことが、あったような気もする。
「じゃあこうしないか、お互い1時間おきに起きて状況をチェックするんだ。もし、火が近づいているようだったら、歩き始めよう」
「まあ、それでいいけど……」
僕の提案を、彼は渋々といった様子で承諾した。
テントを設営すると退避時の手間になると考え、地面にシートを敷き、その上にマットと寝袋を重ねただけの状態で寝る。まずはシュウェップスが1時間後に起きることになっているので、2時間後にアラームを設定して、寝袋に潜り込み眠りについた。



アラームで目が覚める。寝袋から這い出し、少し離れたところで用を足しながら、火事の方向を見ると、その先は真っ暗で何も見えない。少し焦げ臭いが、どうやら寝ている間に鎮火したようだ。僕は胸を撫で下ろし、再び眠りにつく。

「おい! 起きろ!」

シュウェップスの叫ぶ声で飛び起きた。まだ、空は暗い。時計を見ると、まだ深夜1時を過ぎたところだ。

「スケッチ! 起きろ!」

何事かと彼の方を見ると、こんな時間に荷物をまとめて出発しようとしている。

「一体何事なんだよ」と文句を言いかけたとき、目の前の光景を見て血の気が引いた。
闇夜に、真っ赤に燃え上がった山がゆらゆら浮かんでいる。鎮火したと思っていたのは、おそらく山間に煙が溜って炎が隠れていただけだったのだ。

「火事が迫ってきてる! 逃げるぞ!」

シュウェップスはもう歩き出そうとしている。
距離はまだあるようだったが、初めて目にする燃える山は、僕に強烈な恐怖心を植えつけた。手当たり次第に、荷物をバックパックに押し込むと、急いでその場を後にする。
まだ日が登っていないので、トレイルは真っ暗だ。ヘッドライトの明かりだけを頼りに、僕らは山の中を駆ける。1つ山を越え谷間に入ると、火事が見えなくなったが、それが更に恐怖を増幅させた。



日の出を迎え、ヘッドランプが不要な明るさになってきた。

「スケッチ! ちょっと、待ってくれ! ここは電波があるぞ!」

急いで自分のスマートフォンを確認するが圏外だ。どうやら彼のスマートフォンだけが電波をつかんでいるようだ。シュウェップスは火事情報をインターネットで調べ始めた。僕はバックパックから食料袋を引きずり出して、スナックを齧る。

「やったぞ! 火事現場はかなり遠い!」
どうやら火事は僕らと逆方向に燃え広がっていたらしい。ちなみに原因は落雷によるものだった。
これで一安心だ。深夜から歩き詰めの僕らは、このタイミングで一度休憩を取ることにした。
スマートフォンのGPSで現在地を確認すると、町に降りる為にヒッチハイクするハイウェイまであと22kmほどで、今からゆっくり歩いても、午後の3時くらいまでには到着しそうだ。
もう町はすぐそこだ……そう思うと、無性に炭酸飲料水が飲みたくなってきた。
コーラ、マウンテン・デュウ、スプライト……この数日、簡素なトルティーヤと泥水をろ過して飲み続けていた僕にとって、なんて甘美な響きなのだろうか!



「なあ、シュウェップス。マックスの置き土産確認したか?」
「おっと、忘れてたぜ!」

シュウェップスはスマートフォン保存されているPDFファイルを開く。
マックスはカナダ人のCDTハイカーで、以前、僕らは3人で一緒に歩いていた。しかし、彼は怪我により1週間前にリタイアしていた。その彼の置き土産とは、これから立ち寄る町にある美味いレストランをまとめたPDFファイルだった。



「おーまじかよ! スケッチ! 次の町は粗挽きのパテを2種類のチーズで挟んだ巨大バーガーだぜ!」
「え? なんて言ったの?」
興奮して早口になった彼の英語が理解できなかった。
「クソ美味そうなバーガーがあるって言ったんだよ! ジャパニーズ・ボーイ!」
「ああ! それは行くしかないな!」

単純な僕らは火事のことなどすっかり忘れて、脳内をバーガーの肉汁で溢れんばかり満たしていた。シュウェップスは、バーガーを美味しく食べるために、今から可能な限り何も食べずに、完全な空腹状態でレストランに飛び込む、という苦行を提案し、僕は快諾した。



トレイルヘッドの駐車場に着いたのは午後の2時ごろだった。アメリカの登山口には大概、トイレが併設された広い駐車場がある。トレイルの案内掲示板を見ると、熊とマウンテンライオンと毒ヘビに注意する紙が貼られている。
駐車場を抜け、舗装されたハイウェイに出た僕らは愕然とした。車の往来が全くないからだ。

まだこの場に出たばかりなので、はっきりとは分からないが、どことなくヒッチハイクが難しそうな雰囲気がする。シュウェップスも同じ印象を受けたようで、顔をしかめている。
とりあえず停車しやすそうなスペースまで歩き、そこにバックパックを置いて、座り込んだ。

1時間が経過して、事態はかなり深刻だ、と感じはじめていた。車がほとんど来ない。そして、来たとしても全然停まってくれる気配がない。車のナンバープレートのほとんどが他の州のもので、こうなると可能性がかなり低くなる。ローカルの人、この場所だとモンタナ州のナンバープレートを付けた車が、ハイカーをピックアップしてくれることがほとんどなのだ。

この状態になると手の打ちようがない。以前に女性ハイカーを囮にして、男性ハイカーは木陰に隠れて車を停めたことはあったが、ここにいるのは小汚い赤毛のアメリカ人と、空腹で目が虚ろなアジア人だけだ。


2015年に女性ハイカーにヒッチハイクさせた時の写真

僕は綺麗なTシャツに着替えて、帽子とサングラスをとる。シュウェップスは道路に寝転んで、アピールしたりしていたが、それでも車は止まらなかった。その時、ヒッチハイクで定番とも言える方法を試してないことに気がついた。
僕は就寝時に地面に敷くタイベックシートを引っ張り出し、マジックで「Hiker to DARBY」と書く。なぜ、この最も効果的な方法を忘れていたのだろうか。
そのとき車のエンジン音が聞こえた。反射的に立ち上がり、さっとシートを掲げる。すると車はゆっくりと減速し、僕らの前で停車した。何か夢でも見ているような気分だ。





「どこで降ろして欲しい? 郵便局か?」
初老の男性ドライバーは運転しながら尋ねた。この質問だけで、彼が日頃からハイカーを乗せていることが分かる。
ロング・ディスタンス・ハイカーたちは、持ち運べない荷物を町へ郵送したり、必要なギアをネットで購入すると局留めにして受け取る。そのため郵便局とハイカーは切っても切れない関係だ。
オフィスは5時ごろに閉まることが多いので、彼は、僕らが荷物を本日中に受け取れるように、と気遣ってくれたのだ。

「バーガーショップへお願いします!」

僕らは同時に叫んだ。幸いにも荷物はダービーに送っていなかったし、何よりも空腹が限界に達していた。
ドライバーは声をあげて笑い、わかったわかったよ、と言って車を走らせる。

ダービーの中心にあるバーガーショップの前で下車すると、僕らはドライバーに礼を言って、店内へ飛び込んだ。客がほとんどいないので、大きめのテーブルにつく。綺麗な店内で、泥だらけのバックパックと、悪臭を漂わせる僕らは、明らかにその空間にそぐわないが、そんなことは気にしない。
すぐに可愛らしいウェイトレスがメニューを持ってきた。メニューを見るとバーガーの種類が豊富だが、もう何でもよかった。とにかく腹一杯バーガーが食べれたらそれでいい。

「スケッチ、決まったか?」
「いいよ」

ウェイトレスを呼び、シュウェップスはバーガーの名前を告げて、チーズとサイドメニューとサラダのドレッシングを指定する。
「あなたは?」と尋ねられたので、「同じものをください」とだけ言う。

20分ほどでバーガーが運ばれてきたが、待っている時間がとてつもなく長く感じられた。その間に僕らはピッチャーに入ったソフトドリンクを飲み干し、2杯目に取り掛かっていた。

巨大なパテに溶けたチーズが食欲をそそる。その上に野菜とピクルスを盛り付け、マスタードとケチャップを適当に塗ってバンズで挟む。バーガーを持ち上げるとかなりの重量だ。口を大きく開いて勢いよく齧りつく。



まるで時空が歪んだようだった。気がつくと、目の前のバーガーがなくなっていた。テーブルにはパン屑が飛び散り、服に肉汁がこぼれ落ちてシミを作っている。夢中で貪りついてたので、ほとんど食べた記憶がない。胃から込み上げてくるゲップだけが、味を思い起こさせてくれる。シュウェップスをみると、髭をケチャップまみれにして狂ったようにフライドポテトを食べている。

ポテトをポリポリと食べながら、さて、今晩はどこに泊まろうか? と考えた。この町のバーガーショップの事しか調べていなかったので、もちろん安宿の予約などしていない。
そのときにスマートフォンの通知音が鳴った。確認すると先行しているハイカーのスネーク・キッカー(PCTでガラガラ蛇を蹴飛ばしたことからついたトレイルネーム)からのショートメールだ。

"やあ、調子どうだい? ダービーにトレイルエンジェルがいるの知ってるかい? 住所送るから、行くことをお勧めするよ"

トレイルエンジェルとはハイカーを助けてくれるボランティアの人達の呼称だ。彼らはハイカーに食べ物や寝床を提供してくれる。まさに我々にとっての天使である。
メールには、トレイルエンジェル宅の住所と電話番号が記された名刺の写真が添付されていた。

僕はその番号をメモしながら、結局なんとかなるものなのだな、と驚く。
シュエップスはまだポテトを食べ散らかして、ウェイトレスの仕事を増やし続けていた。


ダービーのトレイルエンジェル宅


トレイルエンジェル宅の滞在ノートにラクガキ


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